第91話 望みを視よ




 扉の先に広がる異界は薄暗く、底冷えするような冷気に満ちていた。


 日本との時差を考えると夜中の0時を回った頃だろうか。天窓から満点の星空が覗く。辛うじて生きているわずかな照明が講堂を照らすが、垂れ下がった配線から火花が散った。


 そこに広がるのは、崩れ落ちた壁、飛び散った肉片、それに――死臭。

 人々が生きる世界の片隅に人知れず作られた地獄に、それまで傍観者にすらなれなかったアーティの足がすくんだ。


 壁や柱へ蜘蛛の巣のように張り巡らされた赤黒い筋膜の中心には、真っ二つに別たれたミッシュ・マッシュの骸が鎮座する。死後も腐敗する様子はない。

 アーティが緊張気味に視線を動かすと、下腹部にでっぷりと実をつけた黒い肉の蕾がドクドクと脈打った。あの中に、奴がいる。


「アネット、いけるか?」


 ジュラルミンケースを広げてドローンを飛ばす準備をしていたユリウスが、強張る横顔に問いかける。

 目を逸らしたくなるほど禍々しいものが誰より鮮やかに見えてしまうのは、却って酷だろう。だがアーティには目を逸らすことなど許されない。そのために来たのだから。


「アーティ」


 隣に立ったマコトが、強張る指先を握った。たったそれだけで跳ね馬のようだった心音が凪いでいく。


「アーティなら大丈夫。だって俺のことを見つけてくれたんだから」

「マコト先生……」

「だから、あいつの本当の望みも見つけてあげて」


 促された視線の先で蠢く肉の蕾。

 瞼を閉じて大きく息を吸い込み、吐き出す。

 やがてアイデバイスを装着した瞳がゆっくりと開き、真っ直ぐ前だけを見据えた。


「――始めて、ユリウス」


 ユリウスは深く頷き、ドローンを飛翔させた。

 カタリナとフィリップは二階へ上がり、クロエは弾帯ベルトを肩にかけてシルバーガトリングを構える。先頭にはマコトとタマキが並んだ。そしてアーティと思うように動けないユリウスの前に立つララ。準備は整った。


情報転写式具現装置リアライズ展開スタンバイ


 起動した情報転写式具現装置リアライズとアーティのアイデバイスがリンクする。網膜を通過した光が視神経へ伝わる信号を吸い上げ、自動更新オートアップデートが始まった。


 まず、ミッシュ・マッシュの亡骸に変化が表れた。暗鬱そのものの真っ黒な毛皮を纏っていた身体も、光を吸い込んだアーティの水晶体を通せば、夜景のように鮮やかな輝きを放つ。物体が光を反射して生まれる赤青緑の三原色を駆使した極彩色の世界で色を持った死骸には、オフィーリアが浮かぶ川の草花のように赤、白、黄色の毛が入り混じった。


「これが、テトラクラマシーの視界……」


 圧倒されたようにユリウスが呟いた。

 写真を通して証明したかったアーティの色彩が、現実の空間に広がっていく。誰にも理解されず線引きされていた世界が鮮烈に咲き誇っていく様は、畏怖にも通ずる美しさを見せつけた。


 すると母体の変化を感じ取ったのか、閉じていた蕾がずるりと花開く。


「……、……?」


 姿を現した幼児はパクパクと空気を食むだけで、声は音にならない。骸骨のようにげっそりと痩せこけた真白の上半身。背中から光輪のように生えた手足は急激に腐食が進んでいた。明らかに命の残量が擦り減っている。


「アネット、あれが視えるか?」


 ユリウスの問いに小さく頷いた。ミッシュ・マッシュが具現化した状態で生み出した子どもは精神体ではなく、最初から肉体を持って生まれたらしい。受肉とは違う道を辿った新しい生命体は、ロットナンバーを持たないアーティの目にもしっかりと映る。


 アーティは周囲の余計な情報を遮断して、死に際の子どもだけを真っ直ぐに見つめた。

 悲壮な面をぐるぐると彷徨さまよわせる様子は、親と逸れた子どもを想起させる。


 だが虚ろな目と視線が交差した瞬間。子どもは威嚇するように牙を剥き、背中の手足を目にも留まらぬ速さで伸ばしてきた。


「アネット嬢に近寄らせないで!」

「当たり前だ」


 フィリップの指示に誰よりも早く動いたマコトが腐敗した手足と正面から組み合う。その横をすり抜けたもう一本の醜悪な鞭は、タマキの鋭い爪が切り落とした。それでも次々と際限なく伸びて来る手足を前に、クロエもトリガーに指をかける。


「あんたの手足じゃないのよ、それは!」


 好き勝手に使われているのは、クロエが食わせてしまったドイツ支部職員たちのつぎはぎだ。

 彼女の憤りをそのまま吸い上げたように砲身が回転し、銃弾の圧を放つ。死後も弔いすらできずこんな風に扱われるなんて、我慢ならなかった。せめて奴から切り離してやりたい。

 そんな思いを撃ち放つクロエの弾幕すら掻い潜り、アーティの元へ一本の腕が迫る。


「誰の許可を得てうちの若奥様に触れようと?」


 それを素手で受け止めたのはララだ。彼女は涼しい顔でつぎはぎの腕を引き千切った。


 アーティはすくむ足を叱咤しながら、銃声が飛び交う戦場を瞬きも忘れて必死に見つめる。

 周囲にいる者をがむしゃらに薙ぎ払う姿は、怯えているようにも見えた。だが表情筋が一切動かない顔は多くを語らない。何を思い、何のために周囲を傷つけているのか。想像力で補うにはあまりにも別次元の存在だ。


 ――なら、同じ存在になってもらうのはどうだろうか。


「……ユリウス、あの子に人間の身体の仕組みをそのまま写し込んで」

「人間の?」

「デイドリーマーズは食べた魂の形に受肉するんでしょ? それって、なりたいものになるってことなんじゃないかなって」


 精神体だけの存在が他者の魂を咀嚼して理解を深め、肉を授かって生まれる。それが受肉だ。

 彼らは一般的な生物と違って環境の影響を受けず、生殖はできなくとも巨像から無限に生まれる。それなのにわざわざ肉体を求めるのはなぜなのか。アーティには専門的なことはわからなかったが、フィリップの言葉を借りるとそれは「進化」を選択したからだと。


「だとしたらきっと、あの子は人間になりたかったんだと思う」


 これはアーティの想像でしかない。しかし、人を模した姿がその想像を裏付ける。人の肉を食べ、寄せ集まり、人をかたどったあの姿が。


「あの子が望む姿にしてあげたい。そうすればきっと器は完成する」

「……わかった、少し時間をくれ」


 リアライズで人体を作った前例はない。なぜならこれは怪物を具現化するための装置だから。そんな突拍子もない思いつきができるのも、アーティの柔軟な独創性によるものだろう。


 外部データベースから引用しながら人体を形作る細胞、器官、関節などをデータで作っていく。銃弾が飛び交う戦場で構築するには途方もない作業だが、この時のユリウスの集中力は常軌を逸していた。片腕であることも忘れて、一心不乱にデータを打ち込んでいく。



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