第90話 孤独の旅




 都度ゴールだけを決めたそれぞれの旅は、あれから数百年続いた。

 氷の海に、火の山、雷鳴が鳴り響く湿地、対岸が見えぬほどの大河。終着地で顔を合わせた時にお互いが見た景色を共有することが、終わりのない旅のささやかな楽しみになっていたことは間違いない。


「もっと有用性のある家畜がいたら、人間たちの暮らしが豊かになるのになぁ」


 二百年ぶりの流星群を見上げていた山岳で、男がぽつりと呟く。出自を忘れて人間のコミュニティに魅了された彼にとっては、ただの親切心だったのだろう。だが飼育しやすく用途が多様な家畜がいれば、人間は飢えや寒さをしのぐことができる。そうすれば人口は増え、結果的に我々の同胞が食べる魂が増えるのだ。悪い話ではない。


 翌朝、私たちは山岳に生息する野生動物の死骸を見つけた。小柄ながら強靭な二本の巻角を持ち、毛並みは硬く、肉質も悪い。これを改良して家畜化できないものか。そう考えた私たちは、創造主の真似事を始めた。


 角は安全のために取り除き、毛並みは保湿力があり加工しやすく大量に、食肉化も見据えて脂肪を多めにし、搾乳も可能に。彼が想像する理想を詰め込んだ存在を、死骸を材料に異能で創り出す。創造の雷が生み出した器へ、私が


 そうして生まれた新たな命は『羊』と呼ばれるようになり、私たちの思惑通り人間社会へ多大な恩恵をもたらすことになる。











 お互い気ままに旅をしながらたまに顔を合わせ、必要であれば有益な生命体を生み出す。そんなことを繰り返しながらさらに数千年が経過した頃――。


 待ち合わせをしていた都市で落ち合った彼は、見慣れぬ人間の女を連れていた。生命力に溢れた浅黒い肌と宝石のような緑の瞳がエキゾチックな魅力を放つ、美しい女だった。茶色がかった黒髪がくっきりとした陰影を刻み、人目を惹く存在感がある。


 彼が女の肩を抱いて「つがいになるんだ」と屈託なく笑うので、私は思わず建物の影に引きずり込んだ。


「愚かな真似はやめなさい。彼女はただの人間でしょう」


 神聖で強大な存在から生を受けた我々が人間と交わうなどあり得ない。汚らわしいとさえ思った。

 そんな感情が透けて見えたのか、彼も嫌悪の表情を浮かべ、襟元を捻り上げていた私の手を振り払う。


「誰かと一緒にいることでしか得られない経験や感情がある。俺はそれを育んで生きていきたい。……お前も、いつかわかるよ」


 軽蔑の色を含んだ視線が突き刺す。血が出ないだけで、身体中が穴だらけになってしまった気がした。


 人間が群れを成してつがうのは結構。過酷な大地を一人きりで生きていくことはできない。子々孫々、無限に増え続けて魂を育んでくれたらそれでいい。


 だが――私たちは見た目こそ人間に近しいが、人間とはあまりにも違いすぎる。











 案の定、三十年も経たないうちに彼は一人になった。


 浮浪者が集まる小汚い石壁の酒場で潰れた憐れな男を、向かいの席から見下ろす。

 老衰した最初で最後の妻を看取り、魂を食べたのだと言う。その心意気は立派だが、こうして酒に溺れているのだから報われない。結局、優しすぎる彼は泥沼の悲嘆へ身を沈めることになった。


「だから言ったでしょう、愚かな真似はやめなさいと」


 生きる時間が違う者同士が睦み合っても、訪れるのは別れだけ。

 しかもどちらかの弊害によって子も成せなかったらしい。もしかすると私たちに繁殖能力はないのかもしれない。そもそも必要ないものなのだから。


「別れがこんなに苦しいなんて知らなかった。もう誰も愛さない」


 ひび割れた卓に突っ伏して情けない声で言うものだから、私も一杯だけ付き合ってやることにした。

 小型の木樽へ注がれた質の悪い酒は、味なんてあったもんじゃない。ただ酔わせるだけの液体を胃に入れても、元来備わっている不死の治癒能力によって瞬時にアルコールが分解された。酔うことなどできないはずなのに酒に溺れた、彼の傷の深さがうかがえる。


「……もう行きます。次は南の海沿いにできたという新しい街で会いましょう。海を渡って運ばれる絹と香辛料で栄える煌びやかな街らしいですよ」


 いつも通りゴールの約束だけをして立ち去ろうとする私の手が、不意に掴まれた。見ると、虚ろな深緑の目が縋るような熱を携えてこちらを見上げている。手首から肘へかけて節くれ立った指が意味深に這う。


 途端、身体のどこからか激情が駆け抜けた。



 ――これは、怒りだ。



「私を慰み者にするな!!」


 酒場の外まで響くほど張り上げた声で拒絶し、酷く驚く彼にローブを翻して背を向けた。


 大股で風を切るように歩いても憤怒がおさまらない。都合よく何を期待され、何を求められたのか。考えるだけで脳が焼き切れそうになる。それと同時に、胸に刃物を突き立てられたように鋭く痛む。奥底から込み上げる怒りとは違う感情が悲しみだと気づいたのは、砂漠を歩いた先の街へ辿り着いた頃だった。


 そこで私は、世界を滅ぼす悪魔の手先と叫ばれながら燃やされた。











「やっと見つけた、■■■」


 涙ぐんで微笑む彼が誰なのか、そして呼ばれた名が自分のものだと思い出すまで、少し時間がかかった。


 ずっと探していたんだ。

 生きていてよかった。

 大変だっただろう。


 絶え間なくかけられる労いの言葉に、黒いもやとなった私は返事をすることも頷くこともできない。

 肉体がないのは不便だろうと、彼はその異能で周囲の土から人型の人形を創り出した。


 肉体を焼失してからは思念だけで漂っていたような状態だった。私はで彼が作った土の器にじわりと侵食し、久方ぶりに目を開く。


「ああ、よかった。本当によかった」


 あの時はごめん。今度こそ一緒に旅をしようと無邪気に肩を抱く男にどんな顔で返したのだったか。少なくとも上手く笑えていたはずなのだ。彼の目を出し抜いて、それから何人もの同胞を巨像に喰わせることができたのだから。











 二人で生まれたからこそ孤独を知った。最初から一人であれば、それは孤独とは言わない。誰かがいて、誰かを失い、誰かと誰かが一緒にいる姿を見て、初めて孤独を知る。日の当たる場所で生きる誰かが堀った暗い深潭しんたんを、一人で歩き行くのだ。



 私はあなたが死んだ世界を歩き続ける。

 代わりの足は、いくらでもあるのだから――。



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