第89話 夜は明け、日は昇り
東の空が、夜を惜しんで燃えている。
「朝、来ちゃいましたね」
シーツが乱れたベッドの上。背後から回された腕の中で、アーティが窓の外を眺めてポツリと言う。
雲間から漏れる七色の朝焼けがあまりにも綺麗で、まだ薄暗い中で細めた目は潤んでいた。
「部屋に来る前……マコト先生が私の全部を貰ってくれたら、死んでもいいやって思ってたんです」
アーティは世界が鮮やかに見えるだけの普通の人間だ。戦う術を知らず、自分の身を守ることも難しい。一緒に行くと気丈に振る舞ったものの、恐怖が全くないと言えば嘘になる。
シャワーを浴びながら「悔いのない朝を」というフィリップの言葉をぐるぐる
結果的に、アーティの望みは果たされた。
背後から抱き締める腕に力がこもる。素肌では肌寒いだろうと思って着せたシャツがクシャクシャになるほど。
このまま鍵を使って遠いどこかへ連れ去ってしまおうか。デイドリーマーズもヴィジブル・コンダクターも関係ない静かな場所へ。そんな詮無い考えが過った頭を、情事の鬱血痕が散る項にくっつける。
すると、腕の中に閉じ込めた肢体がくるりと反転した。人よりも多くの色を吸い込む美しい青がマコトだけを映して、切なく細まる。
「だけど人間って、一つお願いが叶ったらどんどんわがままになっちゃうんですね」
今にも泣き出しそうな笑みを浮かべ、差し出された腕に乗せた頭で胸元へ擦り寄る。まるで甘える小動物のような仕草に、マコトはまた狂おしくなった。
「これが最後なんて、やっぱり嫌です。だから絶対に成功させます。そしたら、その……」
少し言いにくそうにたじろぐアーティの耳がほんのりと色づいて見えたので、赤毛を掻き分けて唇を寄せる。「なぁに?」と囁けばふるっと身悶える姿が愛らしくて、やっぱりこのまま連れ去ってしまいたくなった。
「わ、私、たくさん頑張ります。もう死んでもいいなんて思いません。だから――……またいっぱい、愛してくれますか?」
腕の中の想い人から縋るように見つめられて、マコトはどうにかなってしまいそうだった。出発を急かすように白み始める空が憎らしくて堪らない。
一方。煩悩との戦いですっかり固まってしまった様子を見て、赤らんでいたアーティの頬はサァーッと青褪める。
「や、やっぱりこんなのはしたないですよね!? 貞淑なパリジェンヌとしてあるまじき失態! うううぅ調子に乗りましたごめんなさいいいぃぃぃぃぃ!」
勘違いで空回り発狂してシーツを剥ぎ取ると、散々愛し合ったベッドから勢い良く飛び出した。最後の方は腰が砕けて立ち上がれないほど抱き潰したはずなのに、それを感じさせない俊敏な動きにマコトは思わず感心してしまう。
「ぎゃあっ!」
……なんて思っていたら、アーティは足腰を襲う初めての鈍い痛みに悲鳴を上げ、派手に転んだ。ララが丁寧に掃除してくれている毛足の長い絨毯のおかげで怪我はしていないだろうが、羞恥で震える可愛い生物を放っておけない。マコトは軽く身なりを整えて、シーツに包んだアーティを正面からひょいと抱き上げた。
「う、あ、せんせ……」
「全部終わったら、また夜の続きをしようね。……俺も、あんなのじゃまだまだ足りないし」
そう言って微笑む最愛の人の後光に焼かれ、赤く熟れた顔を両手で塞いで身悶えた。初体験にしてはえげつないことをされた気がするが、それを「あんなの」と言ってのけるとは。本能をぶつけ合った熱い情交を思い出して、青い目が回った。
「ねぇ、シャワー浴びるでしょ?」
「うぅ……は、はい……」
「じゃあ一緒に行こう」
「一緒に!? は、はわ、はわわぁっ……! マコト先生の神々しい
「何て?」
夜の艶っぽさはどこへやら。すっかりいつもの調子に戻ってしまったアーティの様子に苦笑した。
淡い朝日が差し込む廊下を、昨日とは違う関係性で歩く。
これからもっと変わっていける。そのための朝が来たのだから。
* * * * *
「じゃあ、行こうか」
早朝。玄関前に集まった全員を見渡して、マコトが鍵束を取り出す。
「マコト先生、中からだと内開きになっちゃいますよ?」
動きやすいように髪を一つに束ねたアーティが問う。たしか外開きの扉が必要だったはず。本来なら外の玄関ポーチから扉を押さなければならないのではないだろうか。
「あらかじめ登録してあるドアに飛ぶにはそうなんだけど、来た時と同じ鍵を内開きで使えば、元いた場所に行けるんだ」
「へぇ、便利〜! じゃあ今回は飛行機に乗らなくて済むねぇ、センセー」
「ひ、飛行機!?」
青白い顔をしたアーティが驚愕の声を上げる。何せ彼女には、かつて嫌がるマコトを地下鉄に乗せて息の根を止めかけた余罪があるのだ。飛行機だなんて、棺桶に入れと言っているようなもの。
「ボク、生まれて初めて『機内にお医者様はいらっしゃいませんか~!?』って叫んじゃったよ。ドラマみたいだったねぇ☆」
「あまりの重篤ぶりに機長が空港に引き返すとか言い出してな。おかげで丁寧にハイジャックする羽目になって、散々だった」
「ドラマみたい☆ じゃないっ! それに丁寧なハイジャックって何!?」
この狂犬にしてこの忠犬あり。アーティの鋭いツッコミが止まらない。それに散々だったのはマコトの方だろうに。
するとお団子尻尾になったタマキが「ニャァ! にゃにゃにゃにゃにゃ、うなぁあん!!」と何かを訴え始めた。
「しょうがないだろ、飛行機に猫の席はないんだから」
「ニャーーーッ!」
マコトに
そんな男性陣の様子をカタリナとクロエは薄目で眺めた。
「緊張感の欠片もないですねぇ」
「全くよ。アネットも気を引き締めなさい。あんたがやられたら全部おしまいなんだから」
「は、はいっ!」
しっかり者の女子に指摘され、アーティは鞭を打たれたように背筋を伸ばす。
クロエとカタリナとは昨日が初対面だったが、姉と妹が一度にできたような頼もしさだ。
それに今回は、有能な家政婦もついて来てくれると言うし。
「当家の女主人のお世話をするのが私の本来の仕事ですので」
「お、女主人って……」
「もう違うとは言わせませんよ? なぜ朝から湯船に新しいお湯が貼ってあったか、お分かりですか?」
つまり、ララには夜のアレコレが全て筒抜けだったと。
察したアーティからは熱々のお風呂よろしく湯気が上がった。「それってつまりぃ~」「ふぅん……?」と興味津々な美少女と美女に挟まれて、更に小さくなってしまう始末である。
そんなアーティの元へ音もなく近づいたフィリップが、眼鏡の奥を光らせた。
「ねぇアネット嬢~」
「ヒィッ!?」
「アネット嬢ってアイデバイスの手術とかしてない裸眼だよねぇ?」
「そう、ですけど……?」
一般的なアイデバイスは義眼タイプである。網膜や虹彩などの仕組みをデジタル化した義眼と目玉をそっくり取り換えるのが主流だ。
しかし、
「よかったぁ! じゃあはいこれ、プレゼント!」
「何です? ……コンタクト?」
手渡された白い小箱を
「ぐふふ、前に研究開発班からかっぱらってた、手術不要の次世代型アイデバイスだよぉ! まだ開発途中なんだけどね、ミシェル君が使っていた機能を搭載したプロトタイプさ!」
手癖の悪さを自慢げに披露してふんぞり返るフィリップは、鼻の穴を大きくして興奮気味に続けた。
「視覚情報を瞬時に処理して直感的に
「いちおく……!?」
飾り気のない白紙の箱に収まった2枚のコンタクトレンズを持つ手が震えた。日本円にして約200億円の代物である。
「まぁ重要なのは値段じゃないんだけどね。君の目には同等の、いやそれ以上の価値があるってこと! アネット嬢が見ている世界を、どうかボクたちにも見せてほしい」
「フィリップさん……」
「でも万が一壊したら弁償ね!」
「え゛っ」
ウインク付の笑顔で1億3千万ユーロをチラつかせてくる狂犬に頬が引き攣る。ちょっと感動しかけたこの時間を返してほしい。
「アーティならきっと大丈夫。それにもし壊しちゃっても、世界の果てまで一緒にばっくれよう」
「せんせぇ……!」
「さっそく踏み倒す気満々じゃないか」
冷静なユリウスの指摘に、カタリナが思わず吹き出した。「ひどいよねぇ」と泣き真似をするフィリップの背後に、家政ヒューマノイドが忍び寄る。
「それより先に、昨日の請求書の支払いを……」
「さぁ行こう、とっとと行こう! もう一分一秒も無駄にできないっ!」
「どこもかしこも不良債権者ばかりじゃない」
取り立て屋から逃れるようにマコトの背をぐいぐい押すフィリップを、クロエが薄目で睨む。白昼夢から世界を目覚めさせる命運がかかっているというのに、どうにも締まらない。
そんな面々を改めて見渡して、マコトは光る鍵穴を解錠した。
「じゃあ、今度こそ本当に行くよ?」
扉の先はドイツ支部の講堂。名前のない存在が産声を上げた、決戦の地だ。
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