第84話 ただいま




「――ッ!? マコト、せんせ……?」


 驚いて強張る身体がすっぽりと抱き締められた。

 右肩に顔をうずめたマコトの方を向こうと身を捩ったが、力強い抱擁がそれを許してくれない。巻き込まれたタマキは窒息する前にアーティの腕からするりと抜け出した。


「よ、よかった、目が覚めたんですね。……あっ、ユリウスもララさんが処置してくれて安静にしてますよ。命に別状はないって。今はカタリナって子のボディを修理してて、えっと……」


 伝えたかった言葉は他にあったはずなのに、どうにも口を吐くのは当たり障りのない状況説明だけ。そうでもしないと、瞳から余計なものが零れ落ちてしまいそうだったから。


「そうだ、お水飲めますか? 今持って来ま――っ、ひゃあ!?」


 回された腕を押して立ち上がろうとしたところをひょいと持ち上げられ、窓際の一人がけソファへ連行された。深く腰掛けたマコトの膝の上を跨いで、正面から向かい合う。

 どうしていいかわからず膝立ちになっているせいでアーティの方の目線の方が少しだけ高い。寝ぼけているのかとも思った。コンプレックスの平たい胸に、ぐりぐりと額を擦り付けてくるのだから。


「あ……ぇ、えっと……せ、先生……?」


 いつもより乱れた旋毛つむじを見下ろして、行き場のない両手が宙を彷徨さまよう。

 細腰に回された腕。赤毛を掻き分け背中を撫でる指先。薄いシャツ一枚越しに肌で感じる吐息。どれも身に覚えのない熱感だ。


「アーティ」

「ふぁ、ぃ……」


 呂律が上手く回らなくて変な声が出た。胸元でマコトがもぞりと動くからだ。

 隅々まで赤く熟れた果実を、右半分にガーゼが貼られた美貌が見上げる。銃弾に撃ち抜かれても数秒で立ち上がれるほどの治癒能力は知っているが、今にも目玉が落ちそうな悲惨な傷を放っておけず、アーティが軽く手当したのだ。


 もう片方の空色の目の下には、疲労が蓄積された濃い隈の残る。瞼を閉じればすぐに意識を飛ばしてしまいそうなほど身体が重い。だが、マコトには伝えなければならない言葉がある。


「――ただいま」

「……!」


 噛み締めるように告げられたたった一言が、不安と無力感に軋んでいた心へ染み渡る。

 どんな強がりよりも、慰めよりも。その言葉だけをずっと求めていた。


「お、おかえり、なさいっ……!」


 ようやく不安が明けた安堵で、声が震える。居場所がなかった腕を回し、大切な存在を胸に抱いた。抱き締められたら抱き締め返していいのだとアーティに教えてくれたのは、他でもないマコトだ。


「ただ待ってるのって、やっぱり怖くて……やっと帰って来たと思ったら、みんなボロボロで、私っ……!」

「ん……」


 黒髪に頬を寄せてしゃくり上げる背中を何度も撫でる。耳元で啜り泣く声が胸に爪を立てるようだった。


「でも……ちゃんと帰って来てくれて、嬉しいです。――おかえりなさい、マコト先生」

「……ただいま、アーティ」


 どれだけ傷を負っても、何を失おうとも。この一言を伝えるためなら、アマネが送り出してくれた恐ろしくて綺麗な世界に帰ろうと思える。


 スンと鼻を啜りながら黒髪を梳く指先がくすぐったくて、愛おしい。何百年生きても焦がれてしまうような安寧を与えてくれる腕に、マコトは安心しきった様子で身を委ねた。


 それからひとしきり生還を噛み締め合った二人は、離れることを忘れてしまったかのようにぴたりと寄り添い合った。

 するとマコトが自分の身に起きたことを整理するように、ミュンヘンでの出来事をぽつりぽつりと話し始める。相変わらずの説明下手だったが、アーティは根気強く相槌を打った。


「右眼を食われそうになった時、ユリウスがここに来てすぐに言ってたことを思い出したんだ」



 ――それは全てを知っている奴の傲慢ごうまんだ。不条理に抗うことなく、一方的に搾取される現状を享受きょうじゅする理由にはならない。



「どうして人間はそんなにもデイドリーマーズを畏れるのか、ずっとわからなくて。ちゃんと向き合えばいいだけなのにって思ってたんだけど……」


 正体の掴めない存在を前に、ただ捕食されるだけの無力な自分を思い出して、手が震える。


「知らないのって、こんなに怖いんだね」


 いつものマイペースで泰然自若とした姿からは想像できないほど弱々しい姿に、アーティは抱き締める力を強めた。


「トーキョーで初めて巨像を視た時、私も怖かったです。それまでの日常が全部ひっくり返ってしまったような気がして、すごく不安で……」


 マコトと出会わなければ、きっと何も知らないまま生涯を終えていた。この世界に生きるほとんどの人間がそうであるように。


「でも本当に怖いのは、知らないままでいることだと思うから。……だから、諦めちゃだめなんです」


 諦めずに目を逸らさないでいたからこそ、見える世界がある。

 アーティがこうしてマコトを抱き締められるようになったのも、知ることを諦めなかったからだ。


「まずは想像して、相手を知ろうとすること。それが理解の前段階だって、マコト先生が教えてくれたんですよ? だからきっと大丈夫。マコト先生なら、ちゃんと向き合えます」


 がむしゃらにレンズを向けていた彼女へかけた言葉が、今は初めて体感する恐怖に戸惑うマコトを奮い立たせた。


 慈愛だけが込められた指先が彼の不安を取り除くように髪を撫で、背中を叩く。耳を押し当てた胸元からトクトクと聞こえる生きる音とリズムが合わさって、マコトは白波が立っていた心が凪いでいくのを感じた。



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