第85話 甘やかな奇跡




「ニャア」


 近くで二人をじろりと見上げていたタマキが「オレもまぜろ」とでも言いたげに鳴いた。定員オーバーなソファに飛び乗り、アーティの膝とマコトの腹の間に肉厚な身体を捩じ込ませる。


「ふふっ。もう、くすぐったいよタマキ」


 愛らしい行動に口元が綻んだアーティが、黒髪を撫でていた手を止めて伸ばそうとした。だがそれよりも早く、マコトの細長い指が丸っこくて柔らかい頭をガシガシと乱雑に撫でる。タマキは「お前じゃない」と不満そうに目を細めたが、次第に耳を垂らして喉を鳴らし始めた。


 その様子をきょとんと眺める胸元に再び黒髪がすり寄る。すると、青い隻眼がアーティを熱っぽく見上げた。


「……今は、俺を慰めてよ」


 そんな風に甘ったれた声でせがまれて、無下にできるわけがない。猫にすら温もりの欠片も分け与えたくないという狭量っぷりも相まって、なおさら愛らしい。


 身体の奥底から込み上げるものを感じて、そばかすの散った頬がじゅわりと色付いた。期待に満ちた甘ったるい視線を受け、ただ待つことを怖がっていたアーティの芯が蕩けていく。


 必要とされたい人に必要とされる。そんな奇跡を噛み締めて、尊い温もりを再び腕の中に閉じ込めた。


「マコト先生って、案外甘えん坊なんですね」

「そうなの?」

「無自覚こわい」

「ごめん?」

「……嬉しいので、謝らなくていいです」



 誰だって、誰かの特別になりたいと願っている。



 血縁以外の特別な愛情を探して人生は進む。全くそんなことを期待していなくても、居心地の良い相手と巡り会えたら嬉しいものだ。求めることを許され、相手からも求められ、そうして個としての存在意義が満たされる。


 アーティにとって、マコトはまさに雲の上の存在だった。

 人外めいた美貌に浮世離れした生い立ち。彼が抱える筆舌に尽くしがたい真実を知れば知るほど、出会った頃の純粋な恋心は憧憬に変わっていった。手が届かないもの、自分には不相応なものと位置付けて、求められることを諦めた。彼の特別にはなれないと。



 報われなくてもいい。それでも傍にいたいと心を尽くして寄り添ってきたアーティがマコトの『特別』に変わるのは、自然なことだ。



 背中に添えていた左手が鮮やかな赤髪を辿り、首の付け根をなぞる。そのまま耳朶みみたぶを掠めた指先に、落ち着きを失った肩がびくりと跳ねた。


「ぁ、あのっ……!」


 指先は明確な意思を持って耳から頬、顎へ移動すると、淡く色づいた唇の端を親指の腹で撫でる。

 火傷しそうなほど火照った頬に手を添えて、後頭部に回されたもう片方の手が強張る身体を引き寄せた。二人の間に挟まったタマキが「みゃぅ」と苦し気な声を上げるが、マコトは気にも留めない。


「せん、せ……」


 絞り出した声は、そのまま空気に溶けて消えてしまいそうなほどか細い。少しでも動けば触れてしまいそうなほどの距離に憧れのご尊顔が迫っているからだ。


(な、なんで? これって……)


 薄くて形の良い唇に、瞬きを忘れた瞳が釘付けになる。肩に置いた手で押し退けることもできたが、どうにも身体が言うことを聞かない。だめなのに。でも……。


(どうして、だめなんだっけ……?)


 求められることに慣れていないアーティは、迫る唇を拒否する言葉を持っていなかった。そもそも拒否する理由なんてものも存在しないのだけれど。


 鼻先がくっつく。唇の凹凸に合わせたほんの僅かな隙間が埋まろうとしていた、その時。



 ――コンコン。



「…………!」


 外から扉をノックする音が響く。

 我に返ったアーティが背筋を総動員して慌てて首を逸らした。窒息寸前だったタマキは咄嗟とっさに逃げ出し、窓辺に退避する。


「旦那様、お目覚めですか?」


 ララの声だ。少し不満げな表情をしたマコトが「起きたよ」とだけ扉の奥へ返す。膝の上から逃げようとするアーティの腕をがっしり掴んで。


「クソ眼鏡から旦那様をお呼びするよう仰せつかりました。可能であればアネット様もご一緒に、と」

「わかった、すぐ行く」

「客室でお待ちしております。では、私はこれで」


 何かを察したのか、ララが部屋の中に入って来ることはなかった。

 遠ざかる足音に緊張が解けて腰が抜けたアーティは、ソファの足元にずるりと崩れ落ちる。マコトの膝とローテーブルに前後を挟まれ尻餅をついた何とも間抜けな状況だが、あのままくっついていたら今頃……。


「~~~ッッッ!?」


 その先を想像して、無事にオーバーヒートした。

 手練れの殺し屋のように無駄のない動きで危険地帯から脱出し、フローリングの上に放置していたカーディガンをそそくさと羽織る。


「な、なんか雰囲気に呑まれちゃいましたね! あはは、は、は、ぇ……?」


 無理にいつもの調子に戻そうとする背中が再び背後から抱き締められる。

 すっかり興を削がれたと思っていたのに、これは一体どういう展開なんだろう。


「呑まれてない。アーティに触れたかった」

「き、きっと他人の温もりが恋しかったんですよ! 私も体調を崩した時はそうなります!」

「違う。アーティだから触れたかった」

「それは……えーっと……」

「でも、我慢する」


『今は』をこれでもかと強調され、体中がカチコチに硬化する。

 今じゃなくなったら一体どうされてしまうのだろう。その先を想像しようとして、やめた。アーティは貞淑なパリジェンヌの鑑である。あまり経験がない上に、愛情を受け入れられるキャパが少ない。指先で摘まめるような些細なことでも、この先一年飢えを知らないでいられるような幸福を感じられるほど多感だ。


 だからきっと、幸せすぎて壊れてしまう。


 自衛本能で無機物化したアーティを解放し、マコトは何食わぬ顔でその手を取って歩き出す。並ぶ二人を見送ったタマキは満足気に目を細めると、窓際で腹を出して毛繕いを始めた。




 * * * * *




 二人が客室に入ると、そこには悲壮な空気が漂っていた。


 まず目に入ったのは、ベッドから上半身を起こしたユリウスの胸に縋り、見も世もなく咽び泣いているクロエ。慟哭を吸い込んだ包帯が涙でじわりと滲む。そのすぐ傍の壁際に力なく座り込んだカタリナは、歯を食い締めて頬を止めどなく伝うオイルを何度も拭っていた。


「何があったんですか……?」


 奥の窓辺に立っていたフィリップにアーティが問いかける。普段の陽気な雰囲気は影を潜め、仄暗い感傷に染まった双眸がゆっくりと視線を寄越した。


「ボクらの大切な仲間が、命と引き換えに時間をくれた」


 そう言って、ウォッチャー専用の通信ガジェットを二人に差し出す。

 光学モニターに表示されていたのは、数え切れないほどの圧縮ファイルが添付されたメール画面だった。見ると、カタリナやユリウスの手元にも同じものが表示されている。


 困惑しながら大量の添付ファイルをスクロールしていった二人が最後に見たのは、ひっそりと記された僅か一行の本文。



『この真実が世界へ開示される未来を願って、僕は亡霊を連れて逝きます』



 それはミシェル・デュ・ノエルが全世界のウォッチャーへ託した贖罪と、遺書である。



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