第83話 恐ろしくて綺麗な世界の中で




 頬骨をむさぼる咀嚼音が、耳にこびりついている。

 暗闇の中で無数の手足に四肢を押さえつけられ、好き勝手に舐り、捕食される感覚。

 知らないものなどなかった。この世の全てを理解している存在のはずだった。それなのに――。




「――マコト」

「っ!?」




 凛とした鈴の声が、マコトを悪夢から呼び覚ます。

 暗闇は晴れ、陽の光が差す視界に薄紫色の藤が揺れた。それに、美しい黒髪も。


「アマ――」


 見上げた先にいる彼女の名を紡ごうとした唇を、人差し指がピタリと制する。穏やかな微笑みを浮かべる口元から視線だけを上げても、頭上を覆い尽くす花から漏れ出た光に遮られた。


 ついこのあいだ別れたばかりなのに、懐かしさが胸を焼く。これが夢であろうと、いや、夢だからこそ目覚めたくない。外の世界には恐ろしいものがいるけれど、彼女の傍は清廉としていて穏やかだ。「寝坊助さんなのは相変わらずね」と笑う、その顔をちゃんと見たい。


「私はあなたの記憶の中で生き続けるけれど、あなたが本当に言葉を尽くさなくちゃいけないのは、もう私じゃないでしょう?」


 かつて愛した美しい人は、膝の上に寝かせた黒髪を愛おしげに撫でる。指先は抉られたまぶたから頬骨が剝き出しになった右頬を伝った。


「こんなにボロボロになってまで帰って来たのは、あの子に伝えたい言葉があるからじゃないの?」


 最後に一抹の寂しさを添えて背中を押してくれた彼女には、全てお見通しなのだ。


 突風が吹き、藤の花が舞う。

 乱反射する光の隙間で、灰色がかった双眸が幸せそうに細まった。


「あの子と一緒にいたいのなら、恐ろしくて綺麗なこの世界の中で、頑張って生きなさい」


 目を開けていられないほどの花吹雪に包まれて、彼女は消えた。

 せっかく安らかに眠れるようになったのに、自分が不甲斐ないばかりに起こしてしまったのだろうか。


 仰向けに倒れたまま、降り注ぐ花に手を伸ばす。


「伝えたい、言葉……」


 待っているだけは怖い。一緒に行きたい、置いて行かないで。


 そんな不安を抱えながら送り出してくれた人へ、まだ伝えていない言葉がある。それに、また一緒に写真を撮ると約束した。


 恐ろしい何かが産声を上げた世界でも、共に覗くファインダーはきっと美しい。これからも、ずっと。




 * * * * *




 体力を消耗しきって意識を失ったマコトが眠る寝室の片隅を、透け感のある硝子のランプシェードが淡く照らす。窓の外ではまだ深い夜が続いていた。


 ガーゼと包帯の巻かれた尻尾が気になるのか、でっぷりとした腹をローテーブルに垂らしたタマキは、片足をピンと上げて股の間を覗き込む。


「大丈夫、短いしっぽも可愛いよ」


 安心させるように柔らかい声色で問いかけながら、アーティはぬるま湯を絞ったタオルで身体を丹念に拭いてやる。水浴びが大嫌いなタマキを気遣っての折衷案だ。


「ほら、綺麗になった」


 こびりついた黒い体液や血を拭い、艶のある毛並みが蘇った。

 タマキはテーブルから重低音で着地すると、フローリングにぺたりと座るアーティへ頬や額を擦りつける。信頼や愛情を表す行動の一つだ。

 ジーンズ生地のショートパンツからすらりと伸びた膝に髭が当たってくすぐったい。肉付きの良い頬肉や顎下を撫でると、ゴロゴロと爆音で喉が鳴った。


「ご飯以外でこんなに甘えてくるの、初めてだね」

「にゃぁぅ」


 膝の上に頭を乗せ、白い腹を出してごろんと寝転がる。完全にリラックスモードへ突入したらしい。


 触り甲斐のある無防備な腹を堪能して気を紛らわせようとするが、アーティの頭の中は背後で眠るマコトのことでいっぱいだ。待ち焦がれていた人が、あんなボロボロの状態で帰って来たのだから。


 マコトだけではない。頼りになるユリウスは片腕を失い、フィリップも背中に酷い火傷を負っていた。見知らぬ女の子と女性も憔悴しきっていて、ミュンヘンでの激しい戦闘を否応なしに物語った。


 自分の無力さを痛感して涙が込み上げるが、この感傷は戦う彼らにとってただの重荷にしかならないだろう。泣いても命は蘇らないし、脅威を退けることもできない。失ったものを純粋に悼むには、片付けなければならない問題が多すぎる。


 それでも。言葉にし難いわびしさがどうにも込み上げるから、苦し紛れにタマキを抱きすくめた。

 タプタプな首周りに顔を埋めて、どうしようもできない嗚咽を吸い込ませる。



 誰にも気づかれないよう静かに肩を震わせる後ろ姿を見た起き抜けのマコトは、本能に導かれるまま音もなく近づくと、背後から腕を回した。



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