第76話 居場所




 日が落ちて星が瞬く空を見上げたアーティは、肌寒さを誤魔化すように膝を抱えて小さくなった。


「アマネさんも、こうやって先生の帰りをずっと待ってたんですね」


 藤が舞う下で眠る彼女にそう問いかける。

 パーゴラの柱に背を預け、人の大きさに盛られた土の上に置いたシロツメクサの花冠を眺めた。待つだけでは手持無沙汰だったアーティが、庭で摘んで作ったものだ。言葉にできないもどかしさと不安を編むようにして、大切な人の無事をただ祈っていた。


 シャツの襟からネックレスにしていたレンズフィルターを取り出す。透明なガラス越しに見上げた満天の星空は肉眼と変わりなく、鮮やかな視界に七色の煌きが惜しみなく降り注ぐ。


「アネット様、こちらにいらしたんですか」


 屋敷の中を探し回っていたララが、ランタンを持って玄関ポーチから歩いてきた。

 座り込むアーティの隣に立ち、花冠と彼女の横顔、そしてレンズフィルターを順に見比べる。


「あまり思い詰めていては身体が持ちませんよ」

「でも……」

「奥様もきっとそうおっしゃっています。それこそ寝て待つくらいの余裕がないと、あの自由奔放な旦那様の帰りを待つのは苦痛です」


 相変わらずの物言いに、少し頬がほころぶ。

 みんなはもうミュンヘンに着いた頃だろうか。マコトとブランデンブルグ門を見上げた日が遠い昔のように思える。あの頃は掴みどころがない師匠の胸中にようやく招き入れてもらえたような気がして、浮かれてしまっていた。この世界に生きる不可視の生態をより深く知った今は、不安の方が大きい。


「心配しなくても、旦那様は必ず帰ってきますよ」

「ララさんはマコト先生を信じてるんですね。私はまだ、知らないことの方が多いから……」


 水は手から零れ落ち、雲を掴むことはできない。確かにそこに在るのに。アーティにとって、マコトはそういう存在だ。

 だが雲は雨となり、大地に染み出た水は川の流れに乗って、やがて海へと還る。ララにしてみれば、アーティとアマネは主人にとっての海に違いない。もっと泰然としていていいのに、当の本人はどこか自信なさげだ。


 家政ヒューマノイドは接客プログラムでもカウンセリングモードでもなく、自分の言葉を紡ぐことにした。


「では私が知っていることをお話をしましょう。このお屋敷は、こちらの藤がつるを這わせていた巨木を材木にして建てられたとか。旦那様のご友人が手伝ってくれたそうですよ」


 アーティの脳裏には、マコトとアマネが並んで見上げていたあの山藤の景色が思い浮かんだ。形こそ変わったが、こうしてパーゴラに移植するほど思い入れのある景色だったのだろう。


「旦那様はどこにでも行けるからこそ、帰る場所が必要だったんだと思います」

「どこにでも行けるからこそ……?」

「正確には居場所と言うのでしょうか。時に人間はそれを探して彷徨さまようのでしょう? そこにいてもいいのだと思える場所を。心休まる場所もなく広い世界をふらふら歩くのは、とても心細いことだと思いませんか?」


 その言葉で、アーティは自分の居場所を思い浮かべてみた。


 まずは実家。

 田舎で暮らす両親はどこにでもいる普通の夫婦で、一人っ子のアーティは愛情を一身に注がれて育った。進学するにあたりパリのアパルトマンを借りることになったが、いつでも帰って来なさいと言う両親の言葉は、今でも心の拠り所になっている。


 次は大学。

 地元のハイスクールから一緒の気心が知れた友人も多い。入学してからお付き合いした一学年上の先輩に「身持ちが堅すぎ」とよく分からないケチをつけられてたった一か月で振られたこと以外は、交友関係は良好だ。



 何も特別じゃない、当たり前の日常。

 そんな居場所があるからこそ、知らない世界へ踏み出せる。



「だから旦那様は必ずここに――アネット様のもとに帰ってきます。今はただ、信じて待ちましょう」


 アーティを取り巻いていた不安や迷いの霧が晴れていく。

 置いて行かれたのではない。帰るべき場所で待っていてほしいと、マコトはそう言ったのだ。


「それに家をよく留守にする家長だからこそ、この屋敷には女主人が必要です。アネット様、気落ちしているだけでは伴侶の仕事は勤まりませんよ」

「は、伴侶!?」

「あら、違うのですか? てっきり私は既にそうなのかと……」

「ち、違います、滅相もない!」


 顔を火照らせ全力で否定してくるアーティを、ララは不思議そうに眺める。この光景を主人が見たらショックで寝込みそうだなと、一人ほくそ笑んだ。


「ですがもしアネット様がそうであってくれたら、使用人としてはとても嬉しく思います」

「う……」


 美しき家政ヒューマノイドに微笑まれ、言葉が詰まる。

 出発前に彼が約束してくれた未来には、そんな光景も含まれているのだろうか。




 * * * * *




「君とは前に会ったことがあるね。余命宣告を受けてから毎晩枕元に現れる謎の美女と、最後の思い出に写真を撮ってほしいって依頼だったかな」


 うなじに生えた黒婦人の蒼白な頬を撫でる細い指が、肉を喰らい血で汚れた赤黒い唇に触れた。

 はくはくと声にならない苦悶を吐き出す意識の外側と内側から、処理しきれない情報が濁流のように押し寄せる。煌々と輝く黄金の右眼から目が離せない。


「あんなに綺麗だったのに……残念だよ」


 ぐりんと上を向いた目玉が内側から押し出され、血を吹き出しながら宙へ飛び出した。

 絶命する瞬間を見納めるマコトの背後に、逆立つたてがみが波打つように迫る。だがよく見ると、それは魔女ペルヒタが従える魔群の手だった。


「ボサッとするな! まだ四体いるぞ!」


 緑の光が絶えず降り注ぐ戦場で怒号を放つユリウスが、迫り来る魔物の手へ銃弾の雨を降らせた。絶え間ない連射でオーバーヒートした銃を捨て、新たなアサルトライフルを構える。


 マコトは黒婦人の亡骸から飛び上がり、二階で情報更新アップデートを続けるフィリップの元へ降り立った。


「センセー大丈……げぇっ! めっちゃ右眼から血ィ出てるよ!?」


 言われて初めて気づき、右頬を伝う鮮血を素手で拭う。

 吸血鬼ナハツェーラーに黒婦人。融合した偏食種グルメを一匹ずつ確実に仕留めていたが、その反動が出たようだ。


「久々だからかな。片目になったせいもあるのかも」

「負荷がかかってるんだろうねぇ。大丈夫そ?」

情報転写式具現装置リアライズのおかげでちょっとは楽だよ。でも、俺を警戒してなかなか顔を出してくれない」


 マコトの能力は相手と見つめ合う必要がある。だが二人が見下ろした巨体は、黒い体毛をいっそう伸ばしてさざめかせた。止まない猛攻の中、あの毛量を掻き分けて偏食種グルメの顔を探すのは困難だ。


「一気に抉り出してやりたいけど火力が足りないねぇ。やっぱもう一回ジャベリンぶっ放すか」

「やめろって言ってるでしょうが!」


 顔の傷に青筋を浮かべた地獄耳のユリウスが、反対側の通路から怒鳴る。

 こういう巨大な相手に適任の仲間は今、自分を見失って戦うことができずにいる。焦りを浮かべたユリウスがスコープから視線を外し、祈るように上階を見上げたその時……。


「――クロエ……?」


 緑葉の瞳が大きく見開かれる。

 彼の視線の先には、破壊された塀の傍に立ち、神へ捧げるように片腕を宙へ差し出したクロエがいた。

 黒衣の袖を捲った手首から滴った赤い血が、ミッシュ・マッシュの背にぽたりと落ちる。まるで「ここにいるよ」と知らしめるように。


「……ッ! だめだ、クロエ!!」


 彼女が何をしようとしているのか気づいたユリウスは、とっさに銃を放り投げて駆け出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る