第77話 愚者は飛ぶ
爆音、爆風、衝撃波。
迫り来るどんな脅威も、クロエの気を引くことはできない。
光を失った目は虚空を見つめ、自分の過ちを一つずつ並べはじめた。
いったいいつから間違えてしまったのだろう。
――両親が破産して家族が離散する際、自分を引き取ろうとしてくれた親戚の手を拒んだ時だろうか。
自己破産してもミシェルはノエル家の長子だ。父親が彼を引き取り、クロエは養子に出されることとなった。だが姉弟が離別する前夜、幼い二人は人知れず逃げ出した。離れ離れの安寧に身を委ねるより、絶望の中だろうと一緒にいたい。ただその一心で。だが、現実は二人の想像も及ばないほど非情であったが。
――拾われた孤児院で、職員の男に身体をまさぐられたと弟に泣き言をこぼした時だろうか。
熱っぽくて気持ち悪い手だった。「きれいだね、かわいいね」と耳元でねちねちと囁かされた言葉は、まるで呪詛のよう。恥ずかしくて、情けなくて。他の大人に相談することもできなかった。
「ねえさまがつらいなら、またいっしょににげよう」
そう言ってくれた弟に手を引かれ、二人はひっそりと逃げ出した。この時に自分さえ我慢していれば、少なくともこんな悲惨な出来事は起きなかったかもしれない。
――無力を思い知り、自ら汚物の掃き溜めに身を落とした時だろうか。
凍えそうなほど寒い夜。高熱が下がらない弟をどうしても病院に連れて行きたくて、通りすがりの紳士に縋った。紳士はとても誠実だった。破瓜で汚れたシーツを見て、最初に提示した倍の金額を手渡してくれたのだから。それでも初診料にすら届かず、クロエは引き返せない沼へずぶずぶと身を沈めてしまった。
ミシェルの為ならどれだけ汚されようと構わない。その気持ちに嘘はなかった。正しかったかどうかは、今はもう、あまり考えたくない。
――隅々まで汚れきった身体で、神を信じた時だろうか。
見たこともない化け物に殺されかけた時、黒いローブが舞い降りた。たまたま任務で街を訪れていたフランチェスカだった。
差し伸べられた手は硬く、手袋の上からでも無機物の冷たさが感じられる。教会の彫刻で見たような天使の輪っかもない。けれど。空の上から優しく微笑むだけの神様より、地獄へ助けに来てくれたサイボーグの方が、ずっと神々しい。フランチェスカだけが、見返りを求めずクロエを救ってくれた。クロエにとっての、神様だった。
――神は神でも死神のようですね。そんな悪態を吐く弟の助言を無視して、浮かれたまま任務へ赴いた時だろうか。
ウォッチャーの候補生となり一年が過ぎようとしていた頃。姉弟に
地獄から救い出してくれたフランチェスカにようやく恩返しができる。胸を躍らせるクロエは、まだ理解できていなかった。救われたのではなく、地獄の番地が変わっただけだということを。
端的に言えば任務は失敗。凶悪な
――愛してやまない弟に、機械の身体を授けてしまった時だろうか。
心臓が止まるのと脳が酸欠になるのにはタイムラグがある。ミシェルの脳はフランチェスカによって取り出され、機械の身体に入れられた。同意したのはクロエだ。
全身義体のサイボーグを人間と認める法律はまだ存在しない。それは倫理観を置き去りにして技術が進化し過ぎたことによる歪みだ。だが歪みを飲み込まなければ、ミシェルは蘇らない。心が壊れる寸前だったクロエは死亡届にサインし、墓を買った。肉体を使い捨てるには死を認めるしかなかった。
そうやって取り戻したミシェルを、もう二度と失いたくない。何に代えようとも。
全て、クロエが望んだことだ。
逃げ出したことも、二人で生きていくと誓ったことも、身体を穢したことも、ウォッチャーになったことも――ミシェルを、機械の身体に閉じ込めてしまったことも。
クロエ自身が望み、決めたこと。
きっとその全てが間違っていた。
「ごめん、なさい……」
通路に倒れた同胞の死体を呆然と眺める。
クロエが鍵を開けたことで、数えきれないほどの仲間が死んだ。自分が殺してしまったも同然だ。それにあの怪物が外へ出たら、ミュンヘンの住人は残らず食い尽くされる。いや、きっとミュンヘンだけでは済まない。奴は死ぬまで人間を食い殺し続けるだろう。
クロエがミシェルのために払った代償は、あまりにも大きすぎる。
何を選択しても間違った答えしか出せない。そして学習せずにまた過ちを繰り返す。カタリナはそれでも一緒に戦おうと言ってくれたが、愚かさは行き過ぎれば罪だ。生きているだけで不幸を呼び寄せる。
ならもういっそのこと、何も選ばない方がいい。
クロエは杭に串刺しにされた遺体にふらりと近いた。そしておもむろに腰のベルトからサバイバルナイフを抜き取ると、手早く自分の手首を切りつける。傷ついた太い血管から、新鮮な血がドクドクと溢れ出す。
――クロエ姉様に、誰よりも幸せになってほしいんです。
去年のミシェルの誕生日。
欲しいものを聞いたら、愚かで間違ってばかりの不出来な姉の幸せを願い、額に祝福のキスをくれた。
「最後まで馬鹿なお姉ちゃんで、ごめんね……」
崩れた塀に足をかけ、血を流す腕を宙へ差し出す。
赤い雫は怪物の背中に落ちた。途端に毛を掻き分けて現れた四つの首がギョロリとこちらを見上げる。
恐怖はない。間違いだらけの人生から解放されると思うと、安堵の方が大きかった。こんなのは贖罪なんかじゃない。向き合うことから逃げただけ。――でも、もう充分戦ったはずだから。
爪先をぐっと踏み込んで、宙へ駆け出す。ふわりと浮いた身体を重量が捕まえて、頭から真っ逆さまに引きずり込まれる。
「クロエ先輩!」
「クロエちゃん!?」
異変に気づいたカタリナとフィリップが叫ぶが、もう遅い。
空から降ってきたご馳走を迎えに行こうと、太い尾がグンと伸びた。再び先端で大きな口が開く。空中で瑞々しい肉体に食らいつく瞬間を思い浮かべ、どす黒い涎を撒き散らした。
びっしりと生えた鋭利な牙で咀嚼され、この大罪で殺された人々と同じ腹へ行き着くだろう。底の見えない喉奥を見据えた金の瞳がゆっくりと閉ざされる。
だが触手の牙に届く直前、クロエは何かにぶつかって大きく軌道を逸れた。驚いて見開いた瞳に映ったのは、憎らしいほど美しい金髪と、飛び散る鮮烈な赤。
「ユリ――」
その名を呼ぶ間もなく、ミッシュ・マッシュが這いずり回る最下層へ激突する。衝撃に身構えたクロエを、一回り大きな身体が抱き込んだ。瓦礫だらけの床を転がり、壁際にぶつかってようやく止まる。
落下の衝撃で数秒気を失っていたクロエは、床を濡らす生暖かい何かに気がついて目を開けた。
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