第65話 帰るための約束




 鼓膜をくすぐる位置から発せられる声に、困惑で目が回る。

 アーティはどうにか抜け出そうと身動ぎした。が、閉じ込める腕に力が込められて、逆に隙間がないほど密着してしまう。


「アーティは強引なところがあるけど、相手から歩み寄られるのは少し苦手だよね」

「そんな、こと……」


 核心を突いたようなその言葉に、抱き締めた身体が硬直する。図星だからだ。


 自分を卑下しているわけではない。利他的であることが美徳だとも思わない。でも、大切な人には幸せでいてほしいとは思う。隣に自分がいないとしても。


 そんな風に他人を尊ぶ一方で、自分の価値を無意識に下げていた。


「抱き締められたら抱き締め返していいんだよ。アーティが誰かを想うようにアーティのことを大切に想ってる誰かがいることを、忘れないで」


 寄る瀬がなく宙を掴んでいた手で、いつだって自分以外の誰かのために尽くしてきた。

 人は集団で暮らす動物。本当の意味で一人では生きていけない。特異な目のせいで孤独の端を舐めた経験があるアーティは、その苦みを他の誰かが味わうことのないよう、無意識に自分を削って優しさを振り撒く。振り撒きすぎて心がすり減っていても「大丈夫」と言って眩しいほど笑うのだ。今のように。


「不安なことがあるなら言っていいよ。抱え込まないで、ちゃんと教えて?」

「でも……」

「言ったでしょ、アーティのことが知りたいって」


 真に優しい人ほど人に優しくされた経験が乏しい。毎日当たり前に顔を出す太陽にわざわざ「大丈夫?」と聞きはしないだろう。

 だからアーティも、こんな風に誰かから自分の気持ちを問いかけられたのは初めてだった。


 鮮やかな視界にじんわりと水の膜が張る。

 置き場を失っていた手で、コートの裾を恐る恐る摘まんだ。


「言っても、いいんでしょうか……? 先生を困らせるだけだって、わかってるのに」


 涙が零れない代わりにマコトの肩口を濡らしたのは、あまりにいじらしい言葉。しっとりと上ずる声色に胸が締めつけられる。

 だからありったけの愛情を込めて、耳元で「いいよ」と囁いた。優しすぎる彼女が本音を吐露できる唯一の人になりたいと願って。


「マコト先生は、扉一枚で世界中のどこへでも行けちゃうから。……アマネさんみたいに先生を繋ぎ止められる自信なんて、私にはこれっぽっちもないんです」


 アーティから見たアマネは、美しかった。身体中に残る火傷痕なんて全く気にならないくらい。目に見える姿形だけではなく、生き様や考え方が洗練されていて、でも人間らしい弱さもあって。それに承認欲求をこじらせていたマコトにとって、共に歩む人が彼女でなければならない理由がちゃんとあった。


 そんな唯一無二の女性と自分が同じ場所に立つことなんてできない。彼女の代わりになろうだなんて考えることすら烏滸おこがましい。だからマコトを繋ぎ止める自信なんて微塵もなかった。置いて行かれたら、もう二度と帰って来てくれないかもしれない。


「本当は、一緒に行きたいです。必要だって言ってほしい。待ってるだけじゃ怖いんです。置いて行かないでください、お願いだから……」


 擦り切れそうなほどか細い声で紡がれた不安と願い。

 マコトの心臓に何かが吸いつくような、そんな甘い痛みが走る。


 どうしたって手放せそうにないのはマコトの方なのだ。どんな言葉で、どんな風に伝えたら受け入れてくれるだろう。口下手な男は必死に頭を動かす。


「……ごめんなさい、どうしようもないことばかり言って」

「ううん、教えてくれてありがとう。アーティの気持ちが知れて嬉しい」

「迷惑じゃないですか……?」

「そんな風に思ってたら、こんなことしないよ」


 細い指が赤毛を梳き、未だに遠慮気味な後頭部を引き寄せる。

 アーティの献身にどれほど救われてきたか。どんなに言葉を尽くしても伝えきれないほど溢れる想いを届けるには、今はただ時間が足りない。


「だからやっぱり、ここにいて」


 その一言で腕の中の身体がピクリと強張る。誤解されないように、すかさず抱き締める力を強めて言葉を重ねた。


「置いていくわけじゃないよ。俺がちゃんと帰って来られるように、ここで待っててほしいんだ」


 世界中のどこにいようと、一日の終わりには必ずアマネの寝顔を見に帰って来ていた。今のマコトが帰るべき場所は、アーティの隣だけ。それを証明して安心させてあげたい。他の誰でもなくアーティの傍にいたいのだと、ちゃんとわかってほしい。


「何か、約束をしようか」

「約束……?」

「帰って来た時にしてほしいこととか」

「それってフラグになりません?」

「ならない。なっても圧し折る」


 頼もしいくらいの即答に、思わずそばかすの散った頬が緩む。

 その人を特別たらしめるのは、いつだって他人の目だ。非日常への気後れで、それを忘れてしまっていた。


「……帰って来たら、またカメラの練習に付き合ってくれますか?」


 お互いに何も知らなかったあの頃のような日常を、アーティは望んでいる。当たり前にそこにある何気ない日々へ、マコトが溶け込んでくれることを。『特別』を『普通』にしたくて、知ることを諦めなかったからこそ。


「いいよ。でも寝坊するかもしれないから、前みたいに起こしに来てほしいな」

「ドア、壊しちゃうかも……」

「そしたらまた二人で大家さんに謝ろう」


 しばらくして、腕の中でアーティがもぞりと顔を上げた。


「……約束、ですよ?」


 たくさんの色を吸い込んでも濁らない青の瞳とようやく目が合い、底なしの承認欲求が満たされていく。

 お互いに視えていても、すれ違う誰もが他人でしかない世界でアーティに見つけてもらえたのは、きっと奇跡だ。


「――うん、約束する」


 どんな地獄に行こうと、必ずここに帰ってくる。

 そう誓って、もう一度だけ最愛の存在を胸に抱く。


 その様子をじっと見守っていたタマキが「みゃぁ」と鳴くまで、二人の抱擁は続いた。




 * * * * *




「もぉ! 結局センセーが一番遅いってどういうことさ!」


 マコトとアーティが向かった玄関ポーチには、既に戦闘服に着替えたフィリップとユリウス、それにララの姿があった。


「ごめんって」

「大方、アネット嬢とあつ~いお別れでもしてたんでしょ! 顔がユルユルだよ、センセー」

「にゃむにゃむ」


 全てを見ていたタマキがこれでもかと大きく頷く。アーティは頬を赤らめて明後日の方を見上げた。


「留守のあいだアーティを頼むね、ララ」

「承知しました。もし旦那様が帰って来なかったら、全世界のマッチングサイトに登録している男性の中から選りすぐりを見繕ってアネット様に斡旋します」

「お願いだからやめて」


 なんて恐ろしい脅しをかけるんだろう、この家政ヒューマノイドは。職も学歴もないマコトが一般男性に勝てるものなど、顔と顔と顔くらいしかないと言うのに。


 すがるような女々しい視線を送ると、それ気づいたアーティが肩をすくめて微笑んだ。


「私にとってマコト先生以上の人はいませんから、きっとマッチングになりませんよ」

「……ごめん、もう一回抱き締めていい?」

「おい」

「センセー」

「……わかったよ。帰って来てからにする」


 先を急ぐユリウスとフィリップの圧に負け、マコトは腰のベルトからしぶしぶ鍵束を取り出した。

 ベルリンの鍵はトーキョーでトラベルガチャを引きまくって覚えたから、もう間違わない。木製の両扉のドアノブにかざすと、光る回路が浮かび上がった。そこへ銀の鍵を差し込んで時計回りに回す。解錠の手応えを感じ、ドアノブに手をかけた。


 マコトは最後に背後を振り返り、アーティの方を見やる。


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、先生」


 帰るべき場所で待っていてくれる人に見送られ、扉を押す。その先に広がるのはドイツの首都・ベルリンの石畳。


 日本との時差はおよそ7時間。真昼の太陽が照らす厳かなブランデンブルク門に見下ろされた三人と一匹は、急ぎドイツ支部のあるミュンヘンに向かった。



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