第56話 未来への葬送




 小麦粉とバターを練る。たったそれだけのことなのに、なぜか天井の吊り下げライトのカバーまで粉紛こなまみれになった。

 見かねたララが冷凍のパイシートを用意してくれたので、それを解凍することなくバキバキに割りながら型に敷き詰める。バターは塗り忘れた。


「先生、ちゃんとお別れできたのかな……」


 アマネの弔いが終わって、一日が経った。

 炎は最初に失明した時の記憶が思い起こされて怖いと言われたらしく、毎回土葬しているとか。藤棚の隣を掘り起こして、全員で棺に土をかけた。


 奇跡的に手繰り寄せた最後の時間で二人が何を話したのか、アーティは知らない。

 泣き腫らした顔のマコトが部屋から出てきたのは日付が変わる前。そこには情報転写式具現装置リアライズで作られた仮の器は既になく、冷たくなったアマネの肉体だけが眠っていた。


 ――ダンッ! ダンッ!!


 これはフィリングに使うためのほうれん草をまな板の上に置き、真上から包丁を叩きつける音。

 怖すぎる手つきに青褪あおざめたユリウスが「素手で千切った方が良いんじゃないか……?」とぼやくと、調理場の悪魔が「いいわね、それ!」と刃物を持ったまま勢いよく振り返る。鬼才・アーティシェフによって危うく頸動脈けいどうみゃくを掻き切られるところだった。恐ろしいことに邪気はない。


 アーティが突然「キッシュを焼きたい」と言い出したのは、家主がいないしんみりとした昼食が終わった後のことだ。

 マコトが本調子に戻らないとすることもないし、この一件で大変な思いをした彼女の気晴らしになるのならいいかと、家政婦と客人たちは快諾した。

 まさか壊滅的に料理ができないとは思わなかったが。


「あひゃひゃ! まぁ、最終的に美味しければいいんじゃない?」


 そんな風に呑気のんきに笑っていたフィリップも、ノンオイルの強火で炭となった具材に塩コショウが一瓶丸ごと投入されたのを見て、軽佻な口を閉ざした。


「健康被害を及ぼす塩分量を検出……ああ、なるほど。キッシュの形をした新型化学兵器であのクソ旦那様をほふるのですね?」

「化学兵器……? ふふっ、ララさんって冗談も言えるんですね~」


 怖い、冗談抜きで。

 この場に居合わせた全員が同じことを思った。


 生クリームを入れただけなのに発生源不明の紫色に変色したキッシュ液を型に注ぐ。

 臓物のような何かが浮いていた気がするが、炭化したほうれん草とベーコンだと信じたい。


「ララさん、オーブンってどうやって使うんですか?」

「私が設定しましょう。温度と時間は?」

「うーん……生焼けが怖いので、最高火力で2時間半!」


 消し炭になるのでは。いや、むしろなってくれた方が世界平和は保たれるかもしれない。そんな祈りを込めて、ララはキッチンのシステムにアクセスした。


 ダークマターを飲み込んだオーブンが黒煙を噴き出す異様な空間で、四人につかの休息が訪れる。


 すると、そわそわと落ち着かない様子のフィリップが口を開いた。


「ねーねー、ちょっと散策してきてもいーかな?」

「旦那様からの行動制限は解除されています。お好きな場所へどうぞ。ただし屋敷の外には出ないように。また迎えに行くのも面倒なので」

「はいはーい!」


 フィリップに続いてユリウスがそそくさと退室する。

 殺人料理から逃げることが目的なのは明らかだった。


 ララは静かになった調理場に椅子を並べて、アーティの隣に座る。彼女が屋敷にやってきた日の夜も、こうして話をした。


「あの、アネット様」

「何です?」

「……奥様の望みを叶えてくださって、ありがとうございました」


 メイドキャップを脱いだ黒髪が恭しく下げられる。


 ララがこの屋敷に迎え入れらた時、アマネは既に寝たきりだった。

 家長である主人は鍵とカメラを片手に世界中を飛び回っている。四六時中そばにいてやれない彼の代わりに奥方のお世話をするのが、ララの主な仕事。そのために廃品置き場から連れ出された。


 出かける主人を見送った後は、ほとんどの時間をアマネと二人きりで過ごす。

 部屋の窓を開けて空気を入れ替え、生命活動に必要な栄養素を送る点滴やシーツを交換する日々。手が空いた時間は一緒に外を眺めた。床に散らばった写真を片付けようとしたら大雨が降ったことも、今では懐かしい。アマネの悲しみを代弁するかのような土砂降りに、家政ヒューマノイドはプログラミングされた仕事である掃除を諦めたのだ。


 眠り続ける彼女のそばは時間の流れが穏やかで居心地が良く、それと同時にむなしい終末の匂いがした。


 きっと一度も声を聞くことなく、静かな別れが訪れる。


 そう信じて止まなかったララの予想は、ある日突然やって来た少女によって、いい意味で裏切られたのだ。


「ヒューマノイドがこんな非現実的なことを言ったらおかしく思われるかもしれませんが……きっと、奥様がアネット様をこの屋敷に呼んだのだと思います」

「おかしくなんかないですよ。私もそんな気がしてます。そうだといいなぁ」


 窓の外で揺れる藤棚を眺めて穏やかに微笑ほほえむ横顔には、屋敷を訪れた当初の不安や悲しみは見受けられない。

 三つ編みのおまじないがなくても、きっともう大丈夫だ。


 ララはあの夜のようにアーティの背に立ち、編み込みを解いてつげ櫛を通した。柔らかい毛先が、触ることのできない空気を「それでも」と言って抱きしめるようにカールする。彼女の心根を表しているようで、ララはそれがとても好ましい。


「あとは旦那様が前を向ければ……」


 主人を案ずる家政婦がそうつぶやいた時、調理場の扉が待ち侘びたように開かれた。




 * * * * *




 フィリップとユリウスの姿は、アマネの寝室にあった。

 部屋の主がいないだけで、その全ては生前のまま転がっている。


「どれもこれも、デイドリーマーズの写真ばかり……」


 足の踏み場もなく床に散らばっている写真を集め、ユリウスが言う。

 現像液や紙の劣化具合を見るに、撮られた年代もバラバラだ。

 二人が想像するよりもずっと長い間、マコトは彼らにレンズを向けてきた。まるで己の承認欲求をぶつけるように。


 誰かに存在を認めてほしいのに、いざそうなると殺してしまう。

 そんな呪いのような能力のせいで、彼はレンズを通すことでしか自己表現や存在証明のすべを見つけられなかったのかもしれない。


「インヴィジブル状態で写真を残すには、アネットが持っていたレンズフィルターが関係してるんでしょうか。……フィリップさん?」


 返事がない変人の背中に問いかける。こんなに静かなのも珍しい。

 ユリウスが顔を巡らせると、フィリップは窓辺の壁にかけられたひと際大きな写真の前で立ち尽くしていた。



 海に面した白い壁とオレンジ屋根の街並み。交易で賑やかだった港は、爆発で飛沫が上がる。

 崩れた建物、沈没した戦艦、爆弾を乗せた無人機ドローン。

 そんな人間の争いを空から見下ろす、巨大な鳥。顔周りの羽を傘のように閉じ、そこから覗く長いくちばしの先端から、戦死者の魂を大量に吸い込んでいる。




『すぐ答えを知りたがるのは短命のさがだな。想像は理解の前段階だ。もっと頭を柔軟に、視野を広げろ』


『連れが待ってんの。2時間後に最後の空爆が来る。全部を吹き飛ばすためのとっておきがな』




 かつての邂逅が思い起こされ、フィリップは眼鏡を外して目頭を押さえた。


って、やっぱりそうじゃん……」


 人好きする友人の明朗な笑顔は、もう二度と見ることができない。

 マコトと彼が行動を共にしていたのなら、鍵やレンズなどの不思議な道具についても頷ける。むしろどうしてその可能性を今まで視野に入れなかったのか、自分に呆れた。

 きっと無意識下で思い返すのを拒んでいたのだろう。人はそれを感傷と呼ぶが、そんなセンチメンタルな精神反応がまだ自分の身体に残っていたのかと、フィリップは自嘲するしかなかった。


「こりゃあボクも、うだうだ言ってる場合じゃないなぁ……」

「フィリップさん……?」

「そうと決まればおともだち大作戦フェーズ2、『昨日のおともだちの今日のおともだちは明日のおともだち』へ移行だ!」

「ダッサ!! あと長い!!」


 ユリウス渾身のツッコミを浴び、いつもの調子を取り戻したフィリップが快活に笑って部屋を出る。


 見る者をはぐらかす複雑な色をした瞳の奥に宿った、とある決意。

 その片鱗を目敏く見つけたユリウスは言葉では呆れながらも、覚悟を決めた。



 これから世界に大きな変化が訪れる。そして、痛みも。

 その先にあるものが自分が望む未来だと信じて、ユリウスはフィリップが歩む道を共に作っていく。今までもそうであったように。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る