第57話 ピリオドの次へ




 アーティを探して調理場へ現れたマコトに連れて来られたのは、フィリップとユリウスが訪れていた山頂の社殿だった。


 潰れたやしろの下から芽吹く草木を柔らかな風が撫でる。

 見覚えのある景色に、アーティは空を映す目を細めた。ここはアマネが毎日祈りを捧げに訪れていた場所だ。


 山のデイドリーマーズたちが恐れるKAMI型巨像の専用食、天誰真己徒御主神アマタマコトミヌシ

 数年ぶりに姿を現した彼を、飢餓状態の怪物たちは遠巻きに見守る。


「ちゃんとお礼を言えてなかったと思って。……アマネの望みを叶えてくれて、ありがとう。アーティのおかげで彼女もやっと輪廻から解脱できた」


 それはつまり、マコトが魂を食べたということ。アマネという存在は昇華され、浄化された魂は全く別の肉体へと結びつく。もう二度と二人が巡り会うことはない。


「本当に、これでよかったんですよね……?」


 アーティは俯いたまま、どこか遠慮気味に問う。

 あの時は無我夢中で、マコトの気持ちを確かめる余裕もなかった。

 身を裂くような別れを何度も繰り返して綻びが雁字搦がんじがらめめになったような二人の関係に、強引に割り入ってしまったのではないか。

 そんな不安に揺れるアーティは、足元から視線を上げられずにいた。


「アマネの願いは俺の願いでもあったから。俺たちがとっくに諦めてたことを、最後にアーティが叶えてくれたんだよ。だから、ありがとう」


 ――君の瞳に映りたい。

 ――あなたの顔が見たい。


 たったそれだけの望みが呪いになるような世界で、マコトはアーティと運命的に出会った。


「アーティ、こっち見て?」

「……?」


 カシャ。


 柔らかな声にいざなわれ顔を上げた先で、シャッター音が鳴る。

 光を切り取って存在を証明する音だ。


 ファインダーから顔を離したマコトが満足げに微笑む。

 目の前の美しい光景に見惚れ、撮影モデルは言葉を詰まらせた。


「は、え? な、なんで?」

「撮りたかったから」

「そ、そんなっ! 先生の被写体になるなら最低でも半年前には言ってもらわないと! 顔と身体がぜんっぜん仕上がってません!」


 カシャ。

 慌てふためくアーティの前で、またシャッターボタンが切られた。

 レンズを向けられると謎に恥ずかしくなって、そばかすの散る頬がみるみる朱色に染まる。


「いつだって綺麗だよ、アーティは。色が少ない世界でもすぐわかるくらい、初めて会った時からずっと綺麗だった」



 ――好きです、弟子にしてください!



 味気ない視界で白昼夢にばかりカメラを向けるマコトの前に突然現れた、強烈な赤。

 たくさんの色を吸い込む大きな瞳に真っ直ぐ見つめられた時から、彼の世界は少しずつ色づき始めていた。



「あ、ぅ、ひぃ……」


 直視できないほど神々しい微笑みに、ショートブーツがじりじりと後退あとずさる。

 嬉しい、恥ずかしい、尊い。色々な感情が沸き上がってしどろもどろになったアーティの逃亡を、マコトは許さなかった。

 所在なさげに胸の前でそわそわしていた手を取って引き寄せると、陽を浴びて色づいた林檎のような頬に指で触れる。


 今までの二人の関係にはなかったような仕草に、アーティは妙な妄想が止まらない。

 西暦2045年のフランス映画では2秒見つめ合ったらキスの合図だ。性別も人種も関係ない。肉感の薄い唇から目が離せず、ごくりと喉を鳴らす。


「アーティ」

「ひ、ひゃい!」


 ――これ以上直視できない! 顔がイイ! 存在が尊い! 好き!! もうどうにでもして!!!


 覚悟を決めて力強く目をつむる。

 草木が擦れる音など、もはや聞こえなかった。


「――好きな食べ物は何?」

「……はい?」


 緊張で強張らせていた唇から、思わず無防備な声が漏れる。

 恐る恐る目を開けた先には、心なしか普段よりも真剣な面差しの美貌が。それはそれで眼福だが、この状況はアーティが予想していたどの展開とも違った。


「よく聴く音楽は? 子どもの頃の夢は? 仲の良い友だちはいるの?」


 矢継ぎ早に質問が重なる。こんなに饒舌じょうぜつなマコトは初めだ。

 1週間分の会話を凝縮したようなやり取りに、アーティはわけがわからず目を回す。


「誕生日はいつ? 血液型は? 朝はコーヒーと紅茶どっち派?」

「あの、ちょっと待ってくださ、」

「猫と犬ならどっちが好き? サラダにオリーブオイルはあり?」

「す、ストーップ!」

「んぐっ」


 怒涛の質問攻めに耐えきれなくなり、肉付きの悪い頬を両手で挟む。唇を突き出した間抜けな顔でも、その美しさは損なわれない。


「こんな時でも顔が良いなんて」と混乱するアーティの火照った手に、一回り大きな冷たい手が重なった。


「アーティのことを教えてほしい」

「私の、こと……?」

「アーティが俺のことを知ろうとしてくれたように、俺もアーティのことが知りたい」


 重ねた手から熱を吸い上げ、青白い頬が色づいていく。


 一生に一度のお願いのつもりなのだろうか。らしくなく緊張した様子のマイペース男を見上げる大きな瞳が、瞬きを繰り返す。


「……だめ?」


 まるでいじけた子どもみたいな物言いに、アーティはとうとう吹き出してしまった。

 顔をくしゃくしゃにして笑いながら、強張った顔をこれでもかとこねくり回す。



 不器用で寂しがり。それでいて臆病な男が、確かにここにいる。

 アーティは、それが何よりも嬉しい。



 されるがままだったマコトが「ねぇ」と口を開いたのと、アーティが彼の首に思いきり抱きついたのはほぼ同時。

 勢いで押し倒されないように足腰にぐっと力を入れ、地面からつま先を浮かせた身体を隙間なく抱きとめた。


「朝は紅茶派だったんですけど、今は先生のアパルトマンで飲むコーヒーが一番好きです」

「……よかった、俺と一緒だ」


 世界で一番鮮やかな赤毛が、熱を帯びて染まった頬をくすぐる。彼女の耳元でささやいた声は愛おしさを隠そうともしない。隠す必要がもうないからだ。


「先生が元気になるようにキッシュを焼いたんですよ。一緒に食べながら、ゆっくり話しましょう。時間はたくさんあるんですから」

「……うん」


 背中と腰へ回した腕に力を込めた。

 もうすり抜けていかないように。取りこぼさないように。


 一足先に次の旅路へ立った彼女が与えてくれた尊い時間を噛み締め、マコトも少しずつ前に進んでいく。アーティと一緒に。





















「これがグリーンランドのオーロラを泳ぐイルカ?」

「それは砂漠の珊瑚」

「じゃあこっちが北極のクワガタ?」

「そっちは死海のオカピ」

「オカ……? もう、やっぱりマコトの説明は大雑把すぎるのよ」


 イルカも海も砂漠も、ましてや森の貴婦人なんて見たことがないのだから、わからなくても仕方がない。

 マコトの肩に頭を寄せ、アマネが小突きながら幸せそうに笑う。


 彼女の心臓が止まるまでの一時間弱。客人たちが二人の時間を作ってくれた。


 人工呼吸器の弱々しい電子音が残りの時間を数えていく。

 ゆっくりと終わりへ向かう肉体が横たわるベッドの端で寄り添いながら、二人は写真を眺めた。


 いつか見てほしいと思いながらシャッターを切り、一方で心のどこかでは諦めていた穏やかな奇跡。それまでの苦心の全てがこの時間に帰結した。


 マコトは笑顔で写真を見つめる横顔をじっと見つめる。できることなら瞬きの回数や瞳の動きまで記憶に刻みつけたい。これで、最後だから。


 恋人同士だったこともあったし、親子だったこともあった。見つけるのが遅くなって孫になったことだってある。彼女が継承した記憶はだんだんとすり減ってきて、最後の方は「はじめまして」と挨拶を交わした。


 そんな時間の全てを思い出に変える時が、すぐそこまで来ている。


「ねぇ、最近はどんな写真を撮ってたの?」

「…………」

「マコト?」

「見せたくない……」

「…………」

「だって、絶対笑うから……」

「…………」

「……わかった、わかったよ、見せる。だからそのジト目やめて」

「ふふっ、いい子」


 どうしたって彼女には適わない。後から思い出す最後の顔がこんな仏頂面なんてごめんだ。

 観念したマコトは一度立ち上がり、壁付けの棚にずらりと並んだファイルボックスを取り出す。

 アマネはそれを受け取り、わくわくしながら厚手の表紙を開いた。日付順に保管されたネガフィルムに目を通すと、に気づく。


「あらあら、まぁまぁ」


 気のせいか、アマネの瞳の輝度が上がった。


 これも、こっちも、次のページも。デイドリーマーズの写真に混ざってかなりの割合を占めている被写体に目を細めながら、彼女はどこか楽しげな様子でネガをなぞる。

 隣に座り直したマコトは、居心地が悪そうに口元を手で隠した。


「……ごめん」

「謝るってことは、そういう気持ちがあるってこと?」

「自分でもよくわからない。アマネのことが好きって気持ちと同じなのかな?」


 学習不足のAIのようなことを真顔で言うので、アマネは困ったように笑う。

 ちょっと妬けてしまうが、頼りなく揺れる色違いの宝石がこんなにも愛おしいから、全てを赦すことにした。


 わずかに開かれた窓から風が流れ込み、レースカーテンが揺れる。


 日差しが照らすネガに映るのは、被写体にカメラを向ける少女。じれったいマコトの気持ちを表すように、そのどれもが横顔や後ろ姿ばかり。


「『好き』は一人に一つだけよ。同時に二つ持ってはいけないの。誠実じゃなくなっちゃう」

「そう、なんだ……」


 迷子の子ども方がもう少し気丈な顔をするだろう。

 アマネは一度ファイルをベッドの隅に置き、どうしたらいいのかわからないでいるマコトの頭を胸に引き寄せた。そして一回り大きい両手に手を重ねる。


「だから、順番に一つずつ持ってみたら? 片方は心の奥にある一番大事な引き出しにしまって、もう片方を両手で大切に持ってあげるの」

「そしたら、アマネはどうなる……?」

「何も変わらないわ。今まで通り、マコトの記憶の中に居続ける。ああでも、ちょっとすみっこの方に移動してあげるね。だから彼女との新しい思い出をたくさん作ってほしいな」

「アマネはそれでいいの?」

「それがいいの。あなたが幸せになってくれることが、私は何より嬉しい」


 少しも寂しくないと言ったら嘘になる。何を言っても許される世界なら、二人で幸せになりたかったと泣きわめいていただろう。

 でも、アマネはこれでいいと思った。輪廻に囚われ続けていたのは自分だけではない。だからこそ、残される彼の幸せを何より願っている。


「マコト、最後に約束して」


 憂いを帯びた頬を両手で包んだアマネは、お互いの額を合わせた。そこにいる愛しい存在を確かめるように、一滴の恋慕を濡らしながら。


「誰かに理解してもらうって、すごく難しいことよ。でも不可能じゃない。わかるでしょう?」

「……うん」

「だからあなたも、恐れず歩み寄って。相手を知って。あなたが本気で望めば、彼女はきっと応えてくれる」

「……ん」

「……もう、昔っから泣き虫なんだから」

「アマネだって」


 微笑ほほえみながら泣きそぼる二つの影が重なって、命の残り時間を数えていた電子音が止まる。

 マコトの膝の上へ、彼女の身体がゆっくりと崩れ落ちた。


「約束、するから」


 閉じられたまぶたをなぞり、魂の器へ唇を寄せる。

 今度こそ終わらせる。終わらせられる。アーティのおかげで。


 かぶりついたまぶたの断面は、まるでシフォンケーキのようだった。

 口に含んだそれを咀嚼そしゃくし、喉仏が上下する。久方ぶりに味わった魂の味に嗚咽おえつが込み上げた。


「うみゃお?」


 ――手伝おうか?

 窓の外から現れたRIKU型巨像の専用食が、気づかわしげにそう鳴く。


「だめ。一欠片ひとかけらだってやらない」

「んにゃぁ~」


 口では文句を言いつつ、どこか満足げな様子でタマキは毛繕いを始めた。






『天誰真己徒御主神』―完―



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