第53話 おかえりなさい、いってらっしゃい
「アーティ!」
「――……ぁ、れ……? マコト、せんせ……?」
浮上した意識の先にいたのは、美しい顔をくしゃくしゃにしたその人。
あれほどまで会いたいと思っていた人物を前に、目覚めたばかりのアーティの本能は忠実に仕事をした。
「……マコト先生っ!」
「う、わっ!」
マコトの寝室に寝かされていたアーティは背筋と腹筋を総動員して、細い首に勢いよく抱きついた。
部屋の主は不意の行動にバランスを崩し、彼女を押し潰さないように枕元に手をつく。
だが回された腕の力強さとは対照的に、首元に顔を擦り付けてスンと鼻を鳴らす様子は弱々しい。
ほんの僅かな隙間も惜しくなり、マコトは赤毛の後頭部と三つ編みがかかる背中に手を回した。
普段なら興奮で狂った少女の素っ頓狂な悲鳴が響き渡っているところだが、寝室には物悲しい
「先生、せんせぇっ……」
「ここにいるよ」
「はい゛、マコト先生は、ちゃんといます……いるんです、ここに」
「……アーティ?」
夕日が差し込む部屋で、すすり泣く声が淡いグレーのカーディガンに吸い込まれていく。
その存在を確かめるように、マコトの首へ回した腕に力がこもった。
同じ時代に生まれ、何不自由なく触れ合うことができて、共に景色を眺めることができる。
そんな幸福を噛みしめた今、アーティにはすべきことがあった。
「先生、私……」
その時、少し離れた場所で人の気配が。
「あの、いい加減この手をどけてくれませんかね」
「だめ。ユーリにはちょっと刺激が強すぎる……!」
「あんたの中でいったい俺は何歳なんですか」
「ああっ! そんな、センセーってばみんなが見てる前でなんて大胆なことをっ! いやんっ!」
「盛るな、脚色するな、黙れクソ眼鏡」
「……ララ様、ボクに対してだけ暴言のレベル上がってない?」
急に騒がしくなる室内。
二人きりだと思っていたが、実はギャラリーがいたらしい。
入り口付近から三人分の視線を浴び、蒼白だったアーティの顔はみるみるうちに茹で上がっていく。
「んなっ……な、ななななっ……何でいるんですかぁああああ!!」
「あだっ!」
羞恥心が爆発した天真爛漫(物理)な少女に突き飛ばされた師匠は床に横転。情けない呻き声を上げて頭を殴打した。不死じゃなかったら失神していたかもしれない。
「最初からいたよーん。なのにアネット嬢ってば……ンフッ、お熱いねぇ~! 全世界同時配信されてる流行りのドラマが霞むくらい感動で心が揺れ動いちゃった☆」
「あんたに感動する心なんてあるんですか? 不整脈なんじゃ……」
「すっごい真顔で言うじゃんユーリ。……え、普通に傷ついたんだけど」
ハムスターの滑車並みにカラカラと良く回る口だ。
その間に乱れたベッド周りを整えたララが、気が動転しているアーティの手首に触れた。
「脈拍安定、脳波も異常なし。もう安心ですね。……お帰りなさいませ、アネット様。本当によかった」
「ララさん……」
細腰にリボンが結ばれた純白のエプロンに誘われ、アーティは柔らかな二つのブールに包まれる。
シリコン天国。なんか語呂が良い。女神に頭を撫でられながら魅惑の弾力を堪能し、彼女の知能指数は著しく低下した。
「ストレス値が急激に正常化しましたね。本当に変な人です、アネット様は」
「変人じゃなくて変態だろ」
「うっさい田舎モン。あんたは一生パン生地でも揉んでなさいよ」
「これ見よがしに顔を埋めるな、変態じゃじゃ馬女」
いがみ合う二人につられて、緩慢に立ち上がったマコトは一気に騒々しくなった室内を見渡す。
彼が今見ている世界は、二人ぼっちの絶望の中では得ることができなかった尊いもので溢れていた。
自分だけが幸せを享受しているような罪悪感に苛まれたこともある。薄情だとも思った。眠り続ける彼女を置いて、一人だけ前に進もうとしていることが。
けれどもし。もし、彼女が許してくれるのなら――。
「アーティ」
承認欲求の化け物には、呼べば振り返ってくれる存在が必要だった。
だがもう、マコトは化け物ではない。彼を見つけて手を引いてくれる人はたくさんいる。自分の一番脆く醜い部分を曝け出す勇気をくれる人も。
全て、彼女たちが教えてくれた。
凪いだ湖面がマコトを見上げる。
大きな瞳の中にいる自分という存在をしっかりと見つめ返し、覚悟を決めたように息を吐く。
「君に会ってほしい人がいるんだ」
窓の外でパーゴラの藤が揺れる。
この屋敷に来た時からずっと、アマネは二人を呼んでいた。
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