第52話 終着点




「マコト先生は、巨像の専用食に選ばれた……」


 あまりの凄惨さに言葉を失っていたアーティが、止まらない涙を拭う。


 KAMI型が出現した直後、急激なエネルギー変動に触発された浅間山が噴火。火山灰が田畑に降り積もるだけでなく、太陽光をさえぎった噴出物によって冷害が発生。同時に疫病も蔓延し、関連死者数は90万人を超えたと言われている。


 顔を覆いたくなるほど惨たらしい現実の全てを、アーティは目に焼きつけた。

 マコトの全てを知りたいと願ったのは自分なのだ。だから目を逸らさない。彼がしたこと、得たもの、失ったものを直視し続ける。


 すると、底がないと思っていた暗闇の中で落下の浮遊感が収まった。

 逆さまの視界がまばたきき一つで元通りになる。






 暗闇は晴れ、目の前に広がるのは雑踏。

 和装と洋装が入り混じったモダンな街の中を、人々が足早に行き交う。

 靴音、鐘の音、笑い声。様々な雑音の中でも、それははっきりと耳に届いた。


「アマネ」


 幾分いくぶん大人っぽくなった声が、愛おし気にその名を呼ぶ。

 振り向いたアーティの目に映ったのは、学生服を着た青年の元へ駆ける黒髪の女学生。彼女は杖をついていた。揺れる振袖には藤の刺繍ししゅう。目は相変わらず閉じられていたが、火傷の痕は綺麗になくなっている。


 時代が移り変わったのだとわかった。

 彼女の手をしっかりと引いたマコトがアーティとすれ違う。

 その横顔は今までに見たことがないくらい晴れやかで……。彼女のちょっとした冗談で笑う姿にほっとしたのと同時に、アーティは言葉にできない寂寥感せきりょうかんを覚えた。


 魂が循環するのと同じように、輪廻と呼ばれるものが存在する。

 マコトが食べずにいたアマネの魂は、時を越えて再び同じ肉体に宿ったのだろう。


 今度こそ二人が幸せになる未来を思い描き、アーティは目をつむる。些細ささいな嫉妬など胸の奥にしまい込んだ。


 だが再び目を開けた先に広がっていたのは、暗闇に灯された天まで上るほどの業火。

 火の粉が降りかかり、すすが舞う。乾いた風に乗った大火は、木造建築が連なった街を焼け野原に変えた。


 アーティはすぐ近くで呆然自失となって立ち尽くす青年の横顔を見て察する。

 アマネはまた、マコトの手をすり抜けていったのだ。






 一気に広がった炎に吞み込まれ、再び景色が変わる。

 今度はビルの中を路面電車が走る近代的な街だ。

 ビジネスマンが忙しなく行き交う光景の片隅に、手を繋ぐ父と娘の姿があった。

 幼い彼女の顔には目を一周するように包帯が巻かれている。アーティの胸は急激にざわめいた。


 すると、近くでもよおし物を開いていた移動遊園地から爆音で花火が上がる。

 少女は大きな音に驚き、父親の手を振りほどいた。落ち着かせようとする声を爆発音が掻き消す。パニック状態になった少女はその場から走り出してしまった。


「待って、そっちは――」


 アーティが咄嗟とっさに伸ばした手は、宙を掴むようにすり抜ける。これがマコトの味わっていた無力感、虚無、絶望。


 硬直する背後で自動車が急ブレーキを踏む音と、何かがぶつかる生々しい音が重なる。足元まで流れてきたのは、血。

 恐る恐る顔を向けた先には、想像通りの光景が広がっていた。


「まただ……」


 動かなくなった少女の元へ駆け寄った父親は、生気を失った顔でぼそりとつぶやく。


 また、マコトとアマネは別たれた。






 それから何度生まれ変わっても結果は同じ。

 二人が共に過ごせる時間は刹那的で、必ず不幸な別れが訪れる。アマネの視界に光が灯ることもない。


 それでもマコトは、何度生まれ変わろうと彼女を探した。

 愚直に悪夢を繰り返すだけだとわかっているのに、「今度こそは」と擦り切れそうな希望を捨てきれない。幾度いくども魂を食べようとしては吐き出し、惨憺さんたんたる悲しみに沈溺ちんできする。


 何度目の別れか数え切れなくなった頃、アマネが言った。



「自分たちが生きてる世界のことを知らないまま死ぬのは、悲しいことだよ」



 終わりのない輪廻に囚われた彼女も、藻掻き苦しんでいた。

 なぜこんなにも悲しい運命が存在するのか。そうまでして誰が何を得ているのか。

 盲目のアマネだけでなく、この世界に生きるほとんどの人が真実を知らない。それがどうしようもなく悲しいのだと、彼女は言う。


 そんな憂いを晴らすべく、マコトは存在を証明するための手段に写真を選んだ。

 不可視の怪物へ向けたレンズで、世界のありのままを切り取る。


 ファインダーを覗く左目は、いつの間にか空の色に変わっていた。

 色違いの靴下、気づかない赤信号、失われた四季の移ろい。

 何かしらの理由で後天的なオッドアイになったことで、彼の世界から色の境界線がぼやけてしまった。

 それでもマコトは、シャッターを切り続ける。





 あの日の地獄をじっと見つめていた巨木は切り倒され、同じ場所に屋敷が建った。

 庭のパーゴラへ植え替えられた藤が風に揺れる。


「オーロラは太陽が表面爆発してできた何かが風に乗って……何か、そういうやつ」


 現像された写真が無造作に広がる薄暗い部屋の中に「全然わかんないよ」と笑い声が響く。二人が眺めていたのは、空に広がる光の波を泳ぐ半透明なイルカの写真。


 マコトの足の間に座って背中を預けるアマネが、床に散らばる写真を手探りで選ぶ。次は北極の氷塊に乗って海を流れる巨大クワガタだ。

「クワガタってどんな虫?」という問いに返ってきたのは「カブトムシの二本角バージョン」という、あまりにもな回答。アマネがまたおかしそうに笑う。マコトは笑われた抗議のつもりなのか、一回り小さな身体を後ろから思い切り抱き締めた。


 顔を埋めたうまじには、焼きついた血のようなギリシャ文字が浮かんでいる。

 新たな時代で巡り会うたびに薄れるロットナンバーは、彼女のタイムリミットを表しているようだ。


 どこかで解放してあげなければいけない。でも、せめて一度だけでも、彼女に世界を、自分を見てほしい。

 たったそれだけのことが、こんなにも難しい。


「いつか、みんなが同じ景色を見られるようになるといいなぁ」


 そう言ったアマネの真意を確かめる間もなく、名残惜し気に口付けたうなじは、翌年に大病で骨となった。






「もう、もうやめて……」


 塔が少しずつ崩れるように、アーティの情緒はゆっくりと時間をかけて壊れていった。それはマコトも同じだろう。

 絶望を抱えながら永遠を生きる中で、心がポロポロと剥がれ落ちていく。感情が揺れ動くことも、食べ物を味わう喜びも、死に対する恐怖も、全てが穴だらけだ。


 終わりのない旅に思えた。そして喪失の旅はまだ続いている。あの館で眠っているのは、きっと……。



「マコト先生に、会いたい」



 会って思い切り抱きしめたい。あなたは一人じゃないと伝えたい。


 たった一つの望みを叶えるために色々な幸せを諦めた彼が、歩み寄ってくれた。自分を知ってほしいと。その小さな一歩を踏み出すため振り絞った勇気にちゃんと応えたい。――会いたい。


 涙ながらにささやいた瞬間、それまでの景色が白光に呑み込まれる。

 強い光に弱いアーティは反射的に手で顔を覆った。

 次はどんな悲しい別れが待っているのだろう。再び目を開けることに恐怖を覚え始めた、その時。



「いつまで経っても寂しがり屋で、困った人よね」



 背後から聞こえたのは、凛とした鈴のような声。

 顔を覆うアーティの手に、冷たく細い指が重なる。


 ひくりと喉が鳴り、きつくつむった目の端から涙が溢れた。


 屋敷を訪れてからずっとアーティの視界に現れていたのは、彼女だったのだ。


「あの人のこと、お願いしてもいい?」


 彼女もまた、終わりを模索していた。

 繰り返される輪廻からの解脱を望みながらも大切な人の孤独を憂いて、アーティに心残りを託そうとしている。

 

「どうして、私に?」


 涙に濡れた問いかけに応えるよう、背後の彼女はアーティを抱き締め、震える肩に額を埋めた。


「あなたの世界は色鮮やかでしょう? 真っ暗な私じゃ、あの人を幸せにできなかったから。あなたなら私にできなかったことができる。きっと……いいえ、絶対に」


 彼女の声には悔いが滲んでいた。

 救われていたのはマコトだけではない。だからこそ託すのだ。


「ほら、あの人が呼んでいるわ」


 アーティは微かに声が聞こえる方へ視線を向ける。

 随分と深いところまで落ちて来たのだと思っていたが、彼はずっと傍にいてくれた。


「さあ、行きましょう」


 これから先の未来で彼の隣にいるべき人の手を引き、アマネは歩き出した。


 軒先で藤が揺れていた頃の巫女装束の後ろ姿は立ち止まらない。

 これで終わりだ。彼の元にこの少女を送り届けたら、自分の役目は全て終わる。もう二度と目覚めることはない。それでも進まなければ。終着点は、自分で決めたのだから。



 オーロラを泳ぐイルカを、見てみたかった。二本角のカブトムシも。

 彼が何を視て、どんな世界で生きてきたのか。

 ちゃんと、見てあげたかった。


 でも、本当に望んでいたのは――……。



「――アマネさん!」

「ッ!」


 突如、アーティが繋いだ手を思い切り引き寄せた。

 驚いて振り返ったアマネの頬を震える手のひらが包む。


「私、ちゃんと見届けます。マコト先生のことも、あなたが生きていたこの世界のことも。あなたが見られなかったたくさんのものを見て、写真に残します。マコト先生と一緒に……!」


 涙声で必死に告げる少女から、久しく忘れていた光を感じる。

 彼女の永い旅の終幕は想像よりもずっと穏やかで、希望に溢れていた。

 悔いを残す余地もない。



「……マコトを見つけてくれた人が、あなたでよかった」



 二人ぼっちだった世界を照らす、温かくて優しい光。

 ずっと、この時を待っていた。



「戻ったらマコトに伝えて欲しいの。私、私ね――」



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