第51話 花が降る
ある日の夕方。
巨木に
二人で暮らし始めて三度目の初夏。初めての来客に驚くマコトとは対照的に、アマネは普段よりもさらに落ち着いた声色で「お帰り下さい」と彼らに告げた。
聞き慣れない彼女の冷たい声。マコトは胸騒ぎが収まらない。
年を
彼らはアマネの素っ気ない態度を受け、よりいっそう食い下がった。
「あんたがここで
「ミヌシ様はまだお戻りにならんのか」
「先月は八人餓死した。こいつの息子も……。もう次の冬は越えられん」
「あんたが自分で
「やはり生まれながらのめくらでないといかんのか……」
言葉で取り
その後も身勝手にも思える口ぶりで次々と詰め寄る村人たち。
アマネは大丈夫だろうか。心配になって彼女を見上げ、言葉を失う。
過ぎたる悲しみは怒りに変わるものだ。
修羅を背負ったような彼女の怒気が、ピリリと肌を刺すようだった。
「私が
『……最初は、あなたが本物の
頭から血を流して泣きじゃくったアマネを思い起こす。
なぜ全盲の彼女が人里離れた山奥に一人で暮らしているのか、マコトはようやく理解した。
凶作への悲嘆を一身に背負い、村を追い出される憂き目に遭った彼女の絶望は計り知れない。
毎日どんな思いで社殿に通い、何を祈っていたのか。
本当に自分が
不安に黙想するマコトの目に、顔を真っ赤にした男が映る。
「ついに本性を見せたな、この醜い鬼女め!」
そう言って、大きめの石をアマネへ投げつけた。
何も見えない彼女は避けることもできない。無防備な頭を直撃し、脳が揺れた反動でその場に倒れ込んだ。
血のついた石が足元に転がったのを見て、輝く月のようだった
「仕事もできずミヌシ様の
「そ、そうだ! お前の両親の焼死体を埋めた場所から不作は始まった! 呪いで畑が腐ったんだ!」
火がついた村人たちは的外れな罵倒の槍を投げまくる。止めようとした者もいたが、もうどうにもならなかった。
再び飛んできた石から庇うようにマコトが立ちはだかるが、悪意は彼をすり抜けて、アマネの頭を潰す。抵抗もできない小さな呻き声が漏れた。
「やめて! アマネを虐めるな!」
「マコ、ト……」
マコトがどれだけ懸命に叫んでも、彼らには
それどころか……。
「おい今、こいつ『マコト』って言ったぞ……」
「そうか……あんた、
「許せねぇ……! 俺らが飢えて死ぬのをここでのうのうと眺めてやがった!」
マコトは承認欲求の化け物であって、
だがそんな道理など、彼らが知る
興奮した一人が
彼女を殺せばこの飢饉が終わると、本気で思い込んでいる。
誰かのせいにしなければ、村人たちは正気を保てなかった。
――ドツ。
必死に止めようとするマコトをすり抜け、鎌が振り下ろされた。
錆びた刃では、一度に喉を掻き斬ることはできない。
何度も繰り返し襲って来る狂気を前に、凄惨な断末魔が上がる。
もう後戻りできない村人たちは、脅すためだけに持ってきたはずの
「……やめろ」
肩を震わせるマコトの背後で、再び粗末な農具が振り下ろされた。
凛とした鈴の音のような声は潰れ、意味のない悲鳴だけが溢れる。
マコトは恐ろしくなって背後を振り返ることができなかった。
「やめろ……やめ、ろ……!」
風で散った藤の
綺麗だねと笑い合っていたあの頃が遠い昔のよう。
孤独な怪物の無音の嘆願を聞き届ける者はいない。
何を捧げれば、何を手放せば、彼らは鎮まってくれる?
「あんたは呪いそのものだ。獣の餌にもさせねぇ。ここで切り刻んで燃やしてやる……!」
刃こぼれした斧を夢中になって振り下ろしていた男が怨念を吐いた。
憎悪に形があるのなら、それはきっと人間の形をしている。
「……もう、もうやめて! 僕がなる! 僕が
悲壮な
ずたずたになった太い血管から血が噴出して、男たちの顔にかかる。それで彼らはようやく正気を取り戻した。
斧を持っていた者は腰を抜かし、ある者は呆然自失となって失禁。またある者は涙ながらに念仏を唱え……――そして、その存在に気づいた一人が「ヒィッ!」と情けない声を上げる。
「な、何だこのガキ、いつからここにいた!?」
何の前触れもなく姿を現した少年から、彼らは一斉に飛び
黒光りする複数の瞳に呆然自失のマコトが映る。
なぜ突如として一般人にも視認できるようになったのか、それを考える余地はない。
マコトは恐れ
「アマネ……?」
物言わぬ彼女の代わりに突風が吹き荒れ、藤の花を散らす。
薄紫の
そんな中、暴徒と化した村人の中でも高齢の男がその場に両膝をつき、妄信的にマコトを見上げる。
「も、もしや……
その言葉を皮切りに、他の男たちも涙を流しながら少年を拝み始めた。
「ミヌシ様がお戻りになられた……!」
「やはりこの穢れた鬼女が独り占めしていたんだ!」
「貴方様に取り憑いていた呪いを我らが
平身低頭に地面へ額を擦りつける彼らを、マコトは順繰りに見渡す。
「……救う?」
「は、はいっ! どうか――……ぁ?」
顔を上げた男が金色に光る瞳を見つめた瞬間、頭の中に様々な景色が濁流のように流れ込む。
それは内地に暮らす身では見たことのない『海』と呼ばれる大きな水溜まりであり、はたまた甲冑を着た侍たちが槍を突き刺し合う戦場でもあり、
がらんどうになった
「そんな、ミヌシ様、なぜッ……ぁ゛あ゛ア゛ア゛!!」
一人、また一人と、マコトと目が合った男から次々と目玉が飛び出す。
殺したいと思ったわけではない。彼を突き動かしていたのは、理性を焼き切るほどの怒りだ。突如として人の目に映るようになった承認欲求の怪物に、力の制御などできはしない。
そこらかしこで
閑散とした周囲を無感動に見渡し、マコトはアマネの近くにふらりと膝を着く。
ぼやけた視界に夕暮れが滲むほど眩しく感じる。
これが涙だとわからないまま、マコトは彼女の魂の目玉をくり抜いた。
灰色を帯びた虹彩が小さな手のひらの上でころんと揺れる。
(この目に映らなかったから、アマネと一緒にいられた)
もし、彼女の
誰かと触れ合う喜びに焦がれ、失う悲しみを知らない怪物のまま。
食べなければ。今までだってそうしてきたのだから。これが種としての本能。自然の摂理。己の存在理由。だが――。
「……嫌だ、食べたくない、食べられない……!」
これを食べたら、彼女は本当の意味でこの世から欠片もなくなってしまう。
食べ尽くされた魂は怪物の身体の中で浄化され、新たな場所、次の時代で、全く別の肉体に付与される。それはもうアマネではない。
身に余るほど幸せな日々の片隅で、ずっと燻らせていた思いがある。
こんなことを願ってはいけない。ずっと二人で生きていきたい。だから叶わない願いのままでいい。どうか閉ざされた世界のままでいて。あなた以外の瞳に映っても意味はないのだから。でも、本当は――……。
「僕を、見てほしかった」
藤の花が降る。
二人ぼっちだった彼らを覆い隠すように。
世界の
そうして一晩
頭に積もっていた
いつも手のひらの上をすり抜けていくだけだった薄紫色が頭に積もり、手に乗る。そう、
マコトは飛び起きてアマネの頬を両手で包んだ。
雪の上を歩くたびに「冷たい」と言っていた彼女を思い出す。
冷たい。これが、冷たい。
マコトは彼女の胸に刺さった斧を引き抜こうと手をかけた。
柄を握った手が血で滑り、上手く力が入らない。
それでも時間をかけ、なんとか外すことができた。
血溜まりの中で軽くなった身体を抱き起し、その胸に閉じ込める。
ずっとこうしたいと思っていた。だけど、愛しい人を抱きしめるのがこんなにも悲しいことだなんて、知らなかった。
動かぬ肩越しに憎らしいほど美しい夜明けを見ながら、
どれくらいそうしていたのか。
枯れない涙に溺れていたマコトは不意に頭上を見上げる。
巨大な何かが自分たちをじっと見下ろしていることに気づいたのだ。
それは朝の後光に浮かぶ、首のない天の御使い。
虫の
そこにあるべきものの代わりに頭部で輝くのは五重の光輪。
人型の痩せ細った上半身は、下腹部だけが異常に膨れ上がっている。下肢は蛇、というよりは龍に近い。
成層圏を自在に飛び回り、常に地上を見下ろしている最も謎多き
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