第50話 天誰真己徒御主神




 ――アマネ。


 それは今朝、起き抜けのマコトが寝ぼけてささやいた名前。


 少年は宝物を呼ぶように小さな声で反復すると、嬉しそうに森の奥へ姿を消した。


 途端に景色がぐにゃりと変わり、暗闇へ頭から落ちていくような感覚に呑まれる。

 自分の身に何が起きているのか全くわからなかったが、アーティは一つだけ確信した。


「私、マコト先生の過去を見てるんだ」


 すると、陽炎かげろうのように揺らめく映像が次々と浮かび上がり、落下するアーティを取り囲む。


 姿を視た者を無差別に殺してしまう異能のせいで他人の温もりに飢えていた少年と、不可視の怪物が視える特別な目が閉ざされた女性。


 運命的に出会った二人の永く虚しい旅は、ここから始まる。






 宣言通り何度もアマネの元を訪れた少年は、いつしか彼女の住まいへ居つくようになった。

 声が聞こえるだけで触ることはできない。食事も必要なく、暑いのも寒いのもわからない。そんな少年が人ならざる者だと薄々勘付いていたが、アマネは彼を遠ざけなかった。どうせ山の中では二人きりの世界なのだから、と。


 襤褸ぼろ小屋の軒先のきさきに二人並んで、山藤が揺れるの眺める。

 アマネの視界には何も映らないが、風で葉が擦れる音や花の匂いだけでも気分がやわらいだ。それを誰かと共有する感覚が、何よりも愛おしく感じる。


 そんな中、少年が不意に尋ねた。


「ねぇ。アマネは、アマネでしょ?」

「うん?」

「あれはふじ、あそこにいるのはきつね、あっちはちょうちょう」

「そうねぇ」

「……ぼくは? ぼくはなに?」


 名は存在を表す。この頃の彼は名前を持っていなかった。

 アマネはしばらく考える。期待に満ちあふれた瞳が彼女を見つめた。そして……。


「――マコト」

「まこ、と……? どういういみ?」

「この山には遠い昔、天誰真己徒御主神アマタマコトミヌシって神様がいたの。五穀豊穣、良縁成就、疫病退散……まぁ、何でも屋さんね。ふもとの農村も元々は痩せこけた土地で川の氾濫や土砂崩れも多かったから、神様に頼りたくなるのもわかるけど」

「いまはいないの?」

「信仰が薄れて違う土地へ行ってしまったと言われてるわ。だからもう何年も不作続き。このままじゃ飢餓で人がたくさん死んじゃう。だからあなたが新しい希望になってくれたらいいなって」

「きぼう……」

「それにマコトっていうのは、真実って意味もあるのよ。どう、気に入った?」

「……うん!」






 ゆっくりと落下する最中さなか垣間かいま見た二人の記憶は、思わず伸ばした指先が届く前にふっと消えた。


「だから、真実アレセイアだったんだ……」


 薄ら寒い暗闇の中で、アーティは行き場を失った指を手のひらの中に丸めて、強く握りしめる。


 彼女から与えられた名を現すように、マコトは光を閉じ込める筐体きょうたいで、世界のありのままを切り取り続けた。――本当のことを、伝えたかったから。


 底が見えない闇の中へ逆さまに落ちていく浮遊感は数秒、何時間、何日にも感じる。その間にも陽炎かげろうは次々と浮かび上がった。






「山頂に行きたい?」


 会話にも慣れ、言葉のたどたどしさもだいぶ薄れた頃。

 アマネからの申し出を、マコトは不安そうに聞き返す。


「そこに天誰真己徒御主神アマタマコトミヌシを祀っていた社殿があるの。お祈りに行きたいんだけどこの目じゃ難しいでしょう? でもマコトが一緒なら大丈夫かなって」


 閉ざされた視界で整地されていない斜面を登るのは困難だろう。足を滑らせでもしたら命取りだ。

 だが、アマネの初めてのお願いに心惹かれなかったと言えば嘘になる。誰かに必要とされたのは初めてだった。


「……わかった、一緒に行こう」


 それ以来二人は一日も欠かさず山頂の社殿へ参詣さんけいした。

 何十年も前に雷が落ちて屋根は焼失し、腐った木材がどうにかそこに存在しているだけのような場所だ。神様なんてもういない。


 それでも彼女は使い古された梓弓あずさゆみを片手に、弦を指で弾きながら山を登る。弦の音に合わせてカラカラと鳴るのは、手首につけた木の実と骨の数珠。


 毎日決まったルートではあったが、盲目の彼女にとっては命がけだった。山はその日によって姿を変える。マコトがついて行かなければ、早々に野垂れ死んでいただろう。


「マコトがいてくれて良かった」


 そんな風に言ってくれるのは、この世界でただ一人だけ。


 そして藤の花が落ち、寝苦しい夜に蛍が灯り、山が赤く色づき、氷の膜が張る。

 マコトはその様子を逐一アマネに伝えた。暗闇に閉ざされた彼女の視界が少しでも鮮やかになればいいと願って。






「アマネ、どうしたのその傷!」


 日没が始まる直前、通い慣れた小川に水浴びをしに出かけたはずの彼女が、頭から血を流して帰ってきた。


「ちょっと転んじゃって」


 ありきたりな理由を鵜呑みにすることなく、マコトは耳を研ぎ澄ませる。彼の五感は既に人の能力を超越していた。


 木の葉が擦れる音をかき分けて耳に届いたのは複数の足音、そして甲高い笑い声……麓の村の子どもたちだ。遊び半分で山を登って来たのかもしれない。



 ――鬼女、本当にいたね。父ちゃんの言ったとおりだ。


 ――おれがやっつけてやったぞ! ……これで明日は雨が降るかなぁ。


 ――ばか、石投げただけじゃ死なないよ。


 ――ちぇーっ。



 正義という名の無邪気な悪意。なぜそんなものに彼女が晒されなければならないのか。握り締めた手が激情で震える。


 そんなマコトの怒りを敏感に感じ取ったアマネが、困ったように微笑んだ。


「……最初は、あなたが本物の天誰真己徒御主神アマタマコトミヌシならいいなって思ってた」


 そんな願いを込めて、名を与えた。


 アマネはマコトのいる方へ手を伸ばす。丁度なだらかな頬を撫でる形になったのだが、指先は宙を切るだけ。

 堪らずマコトは血と土で汚れた甲へ幼い手を重ねるが、どうしたって二人が触れ合うことはできない。


「でも今は、あなたが誰だって構わない。神様じゃなくたっていい。マコトが一緒にいてくれたら、私はそれだけでいいの」


 乾いた血が張りついた頬から涙が滑り落ちる。

 アマネはその場に力なく座り込むと、張り詰めた糸が切れたように泣くじゃくった。


 震える身体を包み込むようにマコトが腕を回す。当然触れ合うことはできない。だが、何もせずにはいられなかった。






 その年は異様な暖冬だったと記録に残されている。

 冬とは思えない暖気が何日も続き、乾いた風が土煙を吹き上げた。

 ここ数年の異常気象によって、飢餓は既に始まっている。人々は不安げに空を見上げた。凶作は、まだまだ続く。


 マコトとアマネも不吉な予感を抱えながら、山藤の咲き乱れる三度目の初夏が始まった――。



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