第15話
◆
年が改まり、出社する日が来て、さすがに僕も緊張した。
あの警察の接触から、意識して報道をチェックしているけど、大手メディアに限らず、どこにも桐谷なる人物に関する報道はなかった。だからと言って、会社の方に手が回っていない可能性がゼロとは言えない。
会社に何らかの知らせが行き、休みの間に僕のところに退職するように求める連絡が来るのでは、と、正直、正月三が日、気が抜けなかった。そしてどうやら、そんな根回しはなかったらしく、僕は出社しても誰からも何も言われなかった。
こちらから変に切り出す勇気もなく、日常の業務が再開された。誰かがどこかから噂を聞きつけて耳打ちしてくれればいいのに、と思いさえしたが、僕は今の仕事が気に入っていたし、職場も気に入っている。わざわざ地雷原に踏み込む必要もないし、火薬のそばでマッチを擦る必要もない。
そうこうしているうちに仕事は忙しくなり、春になった。
僕は昼休みに会社の建物を出て、通りを行く大勢の人に混ざって食堂へ行った。ここ数日、気になる店員がいて通っている店だった。日本食を出す店で、その定員はただ配膳をする役目を担う女子大生のような年頃の娘だ。和食の店より、ハンバーガーショップが似合いそうなところが気に入った。
席に通され、昨日は鯖の味噌煮定食、一昨日は刺身定食だったな、と思い出しながら、この日はアジの干物定食にした。静かな店内に不釣り合いな店員がいる以外、実にオーソドックスな店である。
少しすると、不意に背後から声がした。
「あなたが松田一実さん?」
振り返ろうとしたが、相手がすぐ背後の席にいるので、腰を浮かす必要があった。しかしその動作の前に、「そのまま聞いてください」と言われ、動きを止めた。声は男性で、しかし声量は他に聞こえないように抑えられている。
まさか警察の秘密裏の接触か、と思った。
「桐谷古人さんは亡くなりました」
静かな声に、背筋が凍った。
桐谷のことを知っているのか。やはり警察なのだ。しかし、亡くなった? 病気、いや、寿命だろうか。
俺が黙っていると、男は滔々と言葉にした。
「彼はある犯罪を企て、自分の記憶を繰り返し記録化しました。その結果、脳に重い障害を負い、植物状態となった。彼の記憶にまつわる犯罪は長く秘密裏に捜査されていましたが、それも程なく終わるでしょう」
犯罪。障害。植物状態。捜査。
「彼の犯罪は、この社会の根幹に介入する、重大なものでした。重大すぎるが故に、公表されなかった。そしてこれからも詳細には公表されない。されるとすれば、完全に彼の存在が消去された時です」
重大。存在が、消去……。
「彼の存在は、この世界の様々な、数え切れないほどの記録の中に残っている。あなたの記憶の中に、形を変えて、幾重にも存在するように」
記憶情報の中にいた桐谷の姿。そして実際に目の当たりにした、ベッドに寝かされて身動きしない、老人の彼。
「あなたが覚えていれば、彼も満足でしょう。それこそが彼の犯罪の目的なんですから」
お前は誰だ。警察ではないのか。
そう言おうとした時、例の若い店員が料理を持ってきた。しかしお盆の上にあるのはアジのフライ定食だった。
アジの干物を頼んだんだが、と思わず言いそうになったが、違う、それよりも背後にいる男だ。
振り返った。
いない。席は無人で、小さいテーブルには料理がなくなった皿が並んでいた。
僕がほんの短い間、定食の内容に気を取られているうちに、消えてしまった。冗談みたいなやり方だった。
声の主は、桐谷の犯罪に関与している? まさか店員も仲間なのかと思ったが、店員は失礼しましたというとお盆を持って下がっていこうとする。
手がかりがなくなると思い、咄嗟に店員を呼び止めたが、何も知らないようだった。僕はアジのフライ定食でいい、と口にしてみた。店員は申し訳なさそうなまま、上目遣いに「すみません」と繰り返した。演技しているようには見えない。
結局、僕は釈然としないままアジのフライ定食で昼食にして、店を出た。
この数日後、メディアの片隅で、過去に発生した情報犯罪が判明したが、被疑者は死亡していた、という小さな記事が目にとまった。しかしどのような犯罪なのか、規模も時期も明記されず、被疑者の名前も所在も、やはりそこには記されていない。
どれくらいが過ぎたのか、映像の再編集を求める依頼が会社にあり、それは前に仕事を請け負った僕の元へ回された。
レストランで食事をする映像を見た時、僕はハッとした。
それはあの、桐谷という男に気づいた情報だった。
僕は映像を見ていく。
しかし、桐谷の存在は消えていた。僕は以前、それを消していない。何故なら不自然ではあっても、無害だったからだ。それが今、消されている。
情報の書き換え履歴をチェックしたが、前に改変したのは僕だった。それ以外の手は入っていない。
僕にも飲み込めてきた。
桐谷の犯罪は、自身の記憶を、ありとあらゆる記録に紛れ込ませることだったのだろう。
そしてその事件はすでにこの社会から秘密裏に消されようとしている。
桐谷の存在を本当に抹消することで。
いつかの食堂で、正体不明の男はなんと言った?
僕が覚えていればいい。
どうやら僕は、一人の犯罪と犯罪者の、記録装置にされたようだった。
僕の前では、誰かの記憶が再生されている。
改変されるかもしれない、記録された記憶が。
(了)
記録侵入 和泉茉樹 @idumimaki
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