第14話

      ◆


 記録化された記憶の中に存在する奇妙な男の存在は、日々の中で忘れられていった。

 毎日、無数の情報を剪定し続けているけれど、あの男は再び現れることはなかったし、次々と仕事をこなすうちに記憶なんて、あっけないほど簡単に薄れてしまうものだ。

 季節も春先から夏、秋、冬と進み、服装は半袖の時期を過ぎ、厚着の季節になっていた。仕事をする空間も暖房が入れられたものの、やはりどことなく冬の気配に包まれていた。

 年末年始の休暇に入り、その初日、僕は妹に誘われて郊外にある施設を訪れた。そこに妹の夫の祖母という人がいるというのだ。かなりの高齢だが、どうやらもう寝たきりで意思疎通も難しいらしい。

 妹とその夫は職場恋愛の末に結婚した夫婦で、職場というのは医療機関だった。二人とも事務職である。

 施設に僕がついていく理由はあまりわからなかったけど、妹が言うには「老人には刺激は多いほうがいい」ということだった。その超高齢の老婆に僕の姿を見せ、関心を持たせたいらしい。そんな療法があるとは知らなかった。おそらくないだろうけど。

 施設は山の中にあり、建物は大きいのに静寂に包まれていた。変な話だけど、活気というものは感じ取れず、どことなく火葬場を連想させた。

 中に入る妹夫婦についていき、部屋の一つに入ると、なるほど、しわしわの果物のような顔をした老婆がベッドに横になっている。妹とその夫が言葉をかけるが、返事はなく、反応はうっすらと目が開くくらいだ。

 僕は引っ張り出されて、彼女に声をかけたり、顔を覗き込んでみたが反応はない。

「どうしたかったわけ?」

 妹にさりげなく確認してみたが、彼女は肩をすくめただけだった。

 こんなところに同行するとは、僕も真面目すぎるかもしれない。

 妹夫婦が老婆に何か話し始めたので、僕は部屋を出て廊下で待つことにした。その廊下も静寂が支配している。たまに職員と共に老人が通りかかるが、声など発さない。杖をついてヨロヨロあと歩くか、車椅子で進むかという違いはあっても、無言である。職員さえ、言葉数は少なかった。

 じっとしているのがどうにも落ち着かなくなり、僕は外にある公園に行ってみようかとその場を離れようとした。そこへストレッチャーというのか、移動式のベッドが廊下をやってきたので、道を開けることになった。

 何気なくベッドに横たわる男を見た。

 男性、老人。

 いや。

 待てよ。

 僕は足を踏み出し、ベッドの後についていく。職員が不思議そうにこちらを見る。

「どうかなさいましたか」

 よそ見しながらベッドを移動させるのは危険だ、職員は足を止めた。ベッドも停まる。

「そちらの方を、その、知っているかもしれないんです」

 職員が向き直り、少しだけベッドが揺れた。

「桐谷さんのお知り合いですか? 本当に?」

 そう言う職員の顔にある明るい色に、僕は困惑した。

「知り合いというか、知り合いに似ているというか」

「桐谷さんを訪ねてこられた、わけじゃないですよね」

「ええ、別件です。その」

 ちょっとした勇気が必要だった。

「そちらの方、桐谷さん? の顔を、写真で撮影してもいいですか」

 職員は少し迷ったようだった。しかし最後には、本当は禁止ですけど、と言いながら頷いた。

 僕は自分の端末で素早く三枚、ベッドに横になって眠っているようにしか見えない男性の顔写真を撮影した。角度を変えてあるので、立体映像に起こせるだろう。

 礼を言うと、職員も頭を下げて、再びベッドを押して離れていった。

 僕はそれを見送ってから、改めて公園へ出た。建物を出るとぐっと気温が下がり、息が白くなる。庭は本来なら木々や花壇が整えられているだろうけど、雪が積もって花壇は隠れていた。木々は大儀そうに雪を支えていた。

 除雪されている道筋を進んでいき、そのまま東屋まで行った。寒さのせいだろう、東屋は無人だった。椅子は乾いている。

 腰掛けて、端末を取り出した。先ほどの三枚の写真をもう一度、確認し、アプリの一つを起動する。仕事柄、様々なアプリが端末に登録されていた。

 写真の被写体を立体映像にするアプリに、画像を読み込ませる。すぐに立体映像が出来上がった。これはかなり精密だ。実際に先ほど、目の当たりにした顔にそっくりだ。

 次はこの立体映像を別のアプリに通す。こちらのアプリは人間の顔を若返らせたり、逆に年をとらせたりする加工ができる。本来的には遊びのための画像加工アプリだけど、どこかの物好きが本格的な機能のそれをリリースしている。

 立体映像を若返らせる。桐谷というらしい老人の年齢を聞いておけばよかったが、とりあえずは二十歳、若返らせる。うーん、だいぶイメージに近づいたけど、もう十年は若返らせるべきか。

 操作すると、今度はぐっと僕の中のイメージに近づいた。微調整するために一年単位で加工を加減していく。

 そうすると、僕がいつだったか、誰かの記録記憶の中で見た男に限りなく近い人物が出現した。

 つまりあの無数の記録に出現した人物は、桐谷という老人ということか。

 生きているのだ。しかし寝たきりらしい。意識があるかも怪しい。

 彼に何があったのだろう。それを誰かが知っているだろうか。先ほどの職員の様子では、桐谷老人を訪ねてくるものは皆無なのだろう。しかし誰かが施設への入所の手続きをしたはずだ。誰かが代行したのだろうか。例えば、役所の人間、だろうか。

 わからないことしかなかった。

 急に端末にメッセージが表示され、見ると妹からだった。時間を確認すると想像よりも長い時間が過ぎている。もう帰るけどどこにいるのか、という内容のメッセージだったので、僕は玄関で待っていると伝えた。

 東屋を出て、庭を抜け、一度、建物の中を通り抜けて玄関へ出る。まだ妹夫婦はいない。

 やはり施設は静かだった。生と死の狭間のような場所に見える。まるで門だ。ここに来るものは冥界への門の前に立つようなもので、ここを出るということは冥府に旅立つということだ。

 廊下を妹夫婦が歩いてくるのが見えた。二人ともが不機嫌そうだったのが、僕を見ると少しだけ明るくなる。なるほど、二人でいるのが気まずくて僕を呼んだわけか。やっとわかった。

 三人で施設を出て、都市部に戻ってから食事をして、それで別れた。

 自分の部屋に戻る時にはすでに日はとっぷりと暮れていて、集合住宅のまでの道は、街灯が点々と照らしていた。空気の冷え込みは一層深まり、僕はコートのポケットに両手を突っ込んで歩いていた。

 集合住宅の外玄関で個人認証して中に入るのだが、そこに二人の男性が立っているのが見えた。

 二人とも背広の上に丈の長いコートを着ている。

 その二人が同時に僕を見て歩み寄ってくる。

 その足はこびで警官だと気付いた。それも、いつかの警官のように穏やかな雰囲気ではない。

 警察ですが、と一人が手帳を見せ、もう一人は既に僕の側面に立っている。

「失礼ですが、松田一実さんですね?」

「ええ、はい、そうです」

 答えてから、自分が何か犯罪を犯したかを考えたが、引っかかることはなかった。

 ないはずだったが、そう、あるかもしれない。

 桐谷の件だ。でもどこから警察に情報が漏れた? 施設の職員? まさか。

 僕がやったこと。ああ、なるほど、アプリか。僕が写真から立体映像を作ったアプリか、その立体映像を加工したアプリに、警察は網を張っていたのだ。今時、文書や画像を人間がいちいちチェックすることはない。人工知能が見張っているのだ。

 ましてや僕は一度、警察に接触を受けた。つまり、僕を見張っていた可能性もある。

「話を聞かせていただきたいのですが」

 警官の言葉に、僕は頷いた。何も法に引っ掛かることはしていない、という確信が揺らいでいるせいだろう、口の中が乾いて、舌がうまく動かなかった。

 僕はその場で事情聴取を受けた。

 受けたが、想像よりもあっさりとした内容だった。今日はどこにいて、何をしていたのか。それだけを確認され、誰と一緒だったのか、とか、その前後は何をしていたか、とか、限定的である。

 そのことがますます、桐谷老人に関する確信を僕の中に構築した。

「この件はどうか、内密に」

 警官が無表情で言った。

「これはあなたのためですよ、松田さん。次はありません」

 つまり僕が一度、警察の善意をフイにしたことを指摘しているのだ。

 わかりました、と僕が答えると、二人が頷いて視線を交わし、去っていった。二人を見送ってから、僕はやっと外玄関の端末にキーを差し込み、建物の中に入れた。いつの間にか体が冷え切っているのがわかった。

 桐谷老人のことは気になる。

 しかし自分の危険な立場の方が重要だ。警察は間違い無く僕をマークしている。

 部屋に戻り、ドアを閉めて狭い土間に立ったまま、僕は端末を取り出した。そしてそこに記録されてる桐谷老人の立体映像をまず消去し、次に写真三枚を消去した。

 しかし僕の記憶の中には彼の姿がある。

 記憶を消すことはできない。

 僕は初めて、記憶を自在に消せたらいいのに、と思ったが、できないことはできないのだ。

 僕は端末をポケットに突っ込み、靴を乱暴に脱いだ。



(続く)

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