第11話
◆
我々は全ての情報を過不足なく、正確に、極めて正確に記録する術を手にした。
先進国では人生は百年を超えるのが常識となったが、その百年の全てを一つの記録素子に記録することは容易なことだ。その記録素子は人の爪ほどの大きさに過ぎない。
地球の人口は五十億人を下回ったが、おそらく世界が一致団結し、労を厭わなければ、今を生きる五十億人、全てを記録することも可能かもしれない。例えば一つの島を、巨大な図書館、人生という書籍が収められた大図書館にでもすれば。
ただ、これは何も素晴らしいだけ、偉大なだけの技術ではない。
我々は、忘れられるということを喪失した。
誰もかれもが、自分を記録し、同時に他人の記録の中に記録される。
思い出話にのぼるわけでもなく、噂話にのぼるわけでもない、本当のエキストラとして、あなたは、あなたたちは、他人の記録の一場面の、隅の方に写り込んでいる。
その姿は、形を持った影のようなものなのだ。記憶し、記録したものは、その映像や付随する音声、感情を体感したわけだが、それは何者でもない通りすがりの誰かから励起されたものではない。
情報の中にある、曖昧な立ち位置のその存在は、何者も伴わない。
そこにあるだけ。まるで路傍の石のように。野良猫の死体が転がっていることの方が、よほど大きな意味を持つ。あるいは強い日差しの方が、意味を持つだろう。
我々は今、もう一度、記憶と記録に関して、立場を確認しなくてはならない。
かの独裁者は、情報の全てを支配し、独善的な基準でこの世界を改悪しようとした。記録に限らず、人間の記憶、生身の人間の記憶さえも破壊し、この世界を変えようとした。その試みは潰え、我々は独裁者の悪意に打ち勝ったのだ。
あれからは半世紀以上が過ぎた。
情報は自由を謳歌し、記憶は記録と同義になりつつある。
しかし本当に記憶と記録は同列なのだろうか。
電子端末に記録したものは、おおよそが劣化しないまま、その記録装置が破損しない限りは残り続ける。
記憶はそうではない。人間は忘れていく生き物だ。苦痛や苦悩はもちろん、幸福さえも、充足さえも、感動さえもがいずれは劣化し、かすかな名残を残して、消えていってしまう。
あなたは子どもの時の自分を覚えているだろうか。例えばあなたが小学校のかけっこで、一番にゴールした時、あなたは何を感じただろう。当時のあなたはあるいははしゃいだかもしれない、興奮のあまり飛び跳ねたかもしれない。笑ったかもしれない。
今、それを正確に思い出せるだろうか。記録の上ではなく、記憶の中から。運動会の会場の様子、歓声、日の光の強さと風の感触、土の匂い。
今のあなたの年齢を私は知らない。あなたが仮に十代なら、私のこの言葉に反発するかもしれない。自分は全てを覚えていられる、と。忘れるわけがない、と。
我々が記憶の記録化に必死になった、その衝動が、若い世代の主張を否定してしまうのは、心苦しいことだ。大人になれば、必死に記憶を手繰り寄せ、記録しなくては忘れてしまう。誤魔化しようのないその事実が、現代の記録や情報のあり方を生み出し、積み重ねているのである。
私は、情報というものに劣化する権利を与えるべきではないか、と思っている。
我々はもっと多くのことを忘れてもいい。過去にあった、血に塗れた革命、忌まわしい内戦、禁忌とされている独裁者のことさえも、我々は覚えていながら、忘れていくべきではないのか。
私が生きている世界は、たった今、目の前に生まれている。
情報の中にある世界は、過去の中にあり、いわば死体だ。
誰かが言うだろう。過去を教訓にしろ、と。
過去を知っていることで、未来が切り開かれるという感覚は、いくつかの場面で出現する。それは例えば、科学技術は常に積み重ねの上に成り立つ。学問もそうだ。もしかしたら平和さえも、過去における悲劇が生み出したかもしれない。
その過去の情報は、果たして教科書なのか。私たちを導く、船頭なのだろうか。
私が生きている世界の行く末を知っているものは、誰もいない。
その答え、最適な未来を選び取る方法が過去の中に眠っているとは、私には思えない。
むしろ過去における失敗が、今の選択を妨げるようにさえ思える。
学ぶべきものはある。しかし全てを学べば、身動きが取れなくなる。
なら完全なる情報を、完全なまま、受け入れていくのは自縄自縛ということになるのではないか。
現代を生きるものは、教科書、参考書には事欠かない。教師にも事欠かない。全てが記録され、膨大な情報の中から最適なものを選び出せば、学ぶことに支障はない社会がやってきた。
あなたに必要なのは知恵であることを、あなたはすでに知っているだろう。膨張し続ける巨大な情報集合体から情報を抜き出す時、あなたは知恵を絞るはずだ。
その知恵は、どこから来たのか。
完全に満たされ、何のストレスもないのなら、知恵は必要ない。
知恵こそが社会を発展させるなら、我々は整備された情報、過不足ない情報、全てを網羅する情報を、遠ざける必要がある。四苦八苦し、試行錯誤することこそが、本来的な人間の能力、知恵を開花させるはずだからだ。
記憶とは、知恵が整備した図書室だ。
記録とは、コンピュータが整備した図書館である。
どちらが都合がいいかは、各人の判断に委ねる。
我々は知らないことはないと豪語できる社会に生きている。記憶にはなくとも、記録には、なるほど、全てが記録されている。
ところであなたは歯車という存在を知っていると思う。
では、古い腕時計の構造を説明できるだろうか。秒針、分針、時針をどうやったらうまく動かせる構造が出来上がるのか。いくつの歯車が必要だろうか。
あなたは、そんなことは調べればわかる、というかもしれない。
私は、わからない、と答える。わからないことは、当たり前なのだ。調べればわかる、という表現は、実は、わからない、と大差ない。
私自身が腕時計を作らなければならなくなれば、さぞかし困るだろう。ただ、もしどうしても時刻を知りたい必要があるとなったら、腕時計などは作らず、日時計でおおよそを把握する手段に出るかもしれない。
腕時計の構造はなるほど優れている。しかし人間はおおよその時間がわかれば生活に困ることはない。いや、時間など分からなくても、原始的な生活なら困りはしない。
我々は無限に等しい情報を手にしている。その中には、腕時計の構造のような情報が、歯車の発明から始まり、すべて記録されているだろう。それに我々は自由にアクセスできる。
ただし、果てしなく広がる情報の海の全てを知る人間はいない。
我々は全てを記録しながら、すでに実は忘れてもいる。
記憶は忘れられていくが、記録は忘れられない。
我々は記憶の中から記録の存在を忘れているが、記録は記録としてこの社会に存在し続ける。
その忘れられた記録は、いつか役に立つだろうとは思う。
遠い未来か近い未来にそれが開封された時、その情報に接したものは、感動するか、それとも呆れるだろうか。
そこには必要な情報の全てがあり、不必要な情報が付随している。いや、不必要ではない。それぞれに意味を持つはずなのに、意味を持たないとされた情報が、付随しているのだ。
記憶からは忘れられて当然のものが、記録にある。
あまりに残酷ではないだろうか。
我々は、忘れられることがない。
本当の意味で、この世界から立ち去る権利を、奪われているのである。
(匿名による投書より)
(続く)
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