第10話

       ◆


 工場でやるべきことは簡単だった。

 まずは不良を偽装した製品を用意する。テスト情報を入力した重層記録素子が正常に機能していても、不具合があると偽りのタグをつける。

 するとその不良品が再テストされるべく、別の作業員の元へ送られる。驚くべきことに、その作業員が協力者なのだ。ダブルチェックの結果、不具合があるのは間違いないことになり、不良品は廃棄されるレーンに送られる。

 廃棄と言っても、そのまま捨てるわけではない。再利用可能な部品は取り外され、記録装置の中枢部である転写プレートは一度、原型をなくしてから次の製品の原料になる。

 この転写プレートを、そのまま掠めとることになる。高性能の転写プレートさえあれば、製品と大差ない記録素子を組み上げることができる。

 僕がやることはだから、ほんの些細なことだ。

 普段の仕事をする中で、不良品だと嘘をつけばいい。

 最初こそ、不安だった。一つか二つ、不良品を出せばいいと言われているのだが、不良品など本来は滅多に出ない。一つ目の不良品とした製品をベルトコンベアーに戻した後、鼓動が激しくなり、手のひらに汗が滲んだ。そのうちに寒気がするのに、額に汗が雫を作りさえした。

 二つ目の不良品を用意し、これもすぐに僕の手元からは消える。

 やってしまった。

 僕はあまりにも簡単に、引き返せない道へ踏み込んでいた。

 ただ二つの製品を不良品と偽るだけでも、罪は罪だ。

 その日もいつものように、僕に声をかけてくるものはいない。仕事が終わるチャイムが鳴り、作業員たちが一斉に息をついて席を立っていく。僕もそれに混ざった。集団の中にひとりきりでいながら、工場を出て、集合住宅へ戻った。

 約束では、ひと月に一度、二つ、最低でも一つの不良品を用意すればよかった。だからこの初日の仕事の後、次に再び同じことをするまでに長い空白があった。

 考えるには十分な時間だった。そして、悩むこと、苦しむことにも、十分だった。

 半月が過ぎた時、宅配便が届いた。

 開封してみると、中身は最高級とは言えないが僕にはとても手が出せない記録素子と、そっけない封筒だった。封筒を手に取ると、ずっしりと重い。自然、手が、指が震えた。

 封筒の中には二百万円が収まっている。

 これが悪の対価か。

 なんて、安い。

 しかし、なんて容易い。

 僕はしばらく二百万円の入った封筒を手にしたまま、動けなかった。

 この数日後、僕は犯罪グループを介して紹介してもらった医者の元を訪ねた。と言っても、この医者は非合法な医療行為をするだけで、記録装置の窃盗にかかわりはないらしい。

 僕はこの医者に、自分の中にある母の記憶を取り出し、複製し、記録素子に書き込むことを頼んだ。法外な料金が提示され、二百万円で前金を払った。これで僕はあと数度は、重層記録素子を盗む仕事をしないといけない。

「あまり簡単な処置じゃないんだ。記憶が混乱し、日常生活に支障が出るかもしれん」

 医者はそう念を押したが、僕は構わないと答えた。

 記録装置に、母の記憶が焼き付けられた。

 僕は闇医者の診療所のベッドで、動けずにいた。記憶の前後がおかしくなり、混ざり合い、ありもしない記憶が激しく叫び声をあげる。それから目を逸らしたい、耳を塞ぎたいのに、混乱は目で見ているのでも、耳で聞いているのでもなかった。

 どれくらいが過ぎたか、僕は落ち着きを取り戻すことができた。僕の中の記憶は再び正しい場所に戻り、違和感はない。それとは別に、どことなく自分の記憶が作り物めいている気がして、それがどうしようもなく、僕を不安にさせた。

 僕は集合住宅の部屋に戻り、僕の中から複製された、母にまつわる記録を確認した。

 簡易ゴーグルの中には、母の姿がある。微笑みながら母が身振りで伝えてくる。

 おかえりなさい。お疲れ様。

 視界が滲む。記録が不完全なのかと思ったが、違う、僕が泣いているだけだった。

 何度も涙をぬぐい、その度にゴーグルを付けたり外したりして、僕は記録を眺め続けた。

 僕は仕事が終わり、家に帰るとすぐに母の記録に没頭するようになった。

 この記録は長く劣化することはない。まるで生きているように、すぐ目の前に出現する。そう、死んではいないのだ。僕は重大な勘違いをしていた。記憶が記録として残るということは、ある部分では死を克服することなのではないか。

 どこかの優れた人間が、偉い人がその人生を記録にすると、その人物は死を免れる。

 時間は停止する。新しい要素が付け加えられることはない。同じことを繰り返すだけだ。

 でも生きている。

 情報の中で、その人は終わることのない生を、保存された生を繰り返し演じ続ける。

 役者が何かの役を演じるようなものだ。役者個人とは関係なく、役は生きている。さまざまな役者に乗り移るだけの、台詞も動きも決まっているだけの、情報なのに、生きているのだ。

 ずるいと思った。

 僕は自分の中にある羨望、そして恨みから目を逸らすことができなくなっていた。

 僕は自分の中にある情報として母を覚えている。繰り返し反芻し、再び記憶しつつある。そして僕が死んでも、僕の記憶の一部は、記録素子としてここに残る。

 残るが、誰も閲覧はしない。

 僕の人生もそうだ。存在と言い換えてもいい。僕は誰に顧みられることもなく、ただ生き、ただ死に、忘れられる存在だ。

 僕と成功者にどんな違いがあるのか。成功することは、神になるということなのか。では僕は何だ。路傍に転がる石か。名もなき雑草か。蹴り飛ばされ、踏み潰されるだけの。

 自分の考えていることがおかしくなっていると思うときもある。でもすぐに、自分はおかしくないと確信が持てる。正当な怒り、正当な要求をしているにすぎない。いや、それは正当ではないのでは? 違う、正しい感情だ……。いや、いや、これは……、こんなものは……。

 僕は闇医者に料金の残りを支払う。その金は二度目の重層記録素子の窃盗に加担して手に入った。一度目ほど緊張することはなく、全く自然に行動できた。

 闇医者は僕を追い払おうとしたけど、僕は一つのことを提案した。

 その話を胡散臭そうに聞いていた医者だが、話が進むうちに興味を持ったようだった。

「それは興味深い話だが」

 医者は顎に触れながら、眼を細める。そうするといっそう冷酷に見えた。

 でも僕は怯えることも、尻込みすることもなかった。

「あんた、そんなことをしたら、早晩、ひどい有様になるぞ」

「承知の上です」

「自殺か?」

 違います、と僕は答えた。

 僕は死を恐れない。今でさえ、生きているとは言えないのだ。

 人形が動くことを、生きているとは表現しない。

「じゃあ、テロってことだ」

「ささやかなものです」

 そう応じる僕に、闇医者は引きつったように笑った。

 良かろうよ。

 それが闇医者の言葉だった。

「くだらないが、面白い」

 それから僕は、数度に渡る重層記録素子の窃盗に加担し、その報酬を闇医者に握らせて計画を実行した。

 自分を壊したのは、何だったか。

 恨みでも、憧れでもなく、怒りでも、ない。

 愉悦だったかもしれない。

 大きなもの、社会やこの世の理への反逆は、愉快だった。

 自分が崩れていく、失われていくとしても。

 

(続く)

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