第9話

      ◆


 母は施設に移って四年を生きた。

 その間、声を発することはもちろん、身振りの一つもしなかった。時折、瞼を持ち上げ、視線を緩慢に意味もなく動かし、そして瞼を降ろす、それ以外の反応はなかった。

 ただベッドに横になり、施設の職員が時折、体を強引に拭っても、全身をマッサージされても、反応はわずかもなかった。呼吸が乱れることもなく、まるで母の魂はすでにその肉体を後にしたかのようだった。

 実際に魂が抜け落ちた時、心臓は鼓動を止め、肺は収縮を停止し、全てが脱力した。

 最後も母はやはり、瞼を閉じていた。

 死亡診断書には多臓器不全と書かれていたが、死因などは何の救いにもならず、残された僕に何の影響も与えなかった。

 母が死ぬことはわかっていた。年齢もあったし、長い間、ただ生かされている様子を見続けた僕が、母の死を想像しないわけがなかった。

 いつかは来るべき時が、ついに来た。静かに、音もなく、気配もなく。

 ある朝に母は命を失い、次の日には火葬によって肉体は微かな痕跡を残して、消滅した。

 葬式を上げる必要はなかった。母は親族との間に確執があり、それはおそらく母が記憶を除去されてしまい、重度の障害を負うことになったことと関係しているのだろうけど、僕には詳細は伝えられていない。確実なのは、母と繋がりある親族はいないということ。

 暗黒時代における記憶除去は、それを受けた個人に重大な影響を与えたが、それは健康だけに限らない。人間関係、血縁のあるものとの間の関係さえも、破壊してしまったのだ。そしてそれは長い時間を経ても、はっきりと影響を残している。

 母は親族との関係を修復しようとするそぶりを、僕に見せたことはない。誰が母の内心を通報したのかは判然としないが、僕の想像の中では、母は強い恐れを抱いていたのではないか。

 近しい存在に裏切られる恐怖。

 もう独裁者は去り、この社会は正常と言ってもいい形に回帰した。

 それでも何かの拍子に、元に戻らないとは限らない。元に戻らないとしても、まったく別種の暗黒が社会を覆うかもしれない。

 母は、夫と、子である僕の、三人だけで社会を完結させようとしたのではないか。

 最小単位であり、決して裏切らず、傷つけることもないはずの、管理された世界。

 夫に先立たれても、母はそれ固執したように思う。僕と二人だけの世界は、貧しく、味気ないが、しかし裏切りもなく、確執もなかった。静かで、平穏な世界だったのだ。

 僕は母がそれを望んでいたのではないかということに、母が死んでから思い至った。母の元に誰一人線香を供えることもしないのを、集合住宅の僕の部屋の、机の上の骨壷を見ていて気づいた。その瞬間にやっと、思ったのだった。

 母は人間関係を、拒否していたのではないか。

 僕自身のことを思いもした。

 僕が死んだ時、誰かが線香を供えたり、手を合わせることはおそらくない。

 それどころか僕は誰にも見取られることなく、どこかでひっそりと死に、命を失った肉体は自然と腐敗し、もしかしたら白骨になるまで発見されないかもしれない。僕の死は誰にも気づかれないのではないか。僕が一人だから。そばに誰もいないどころか、誰も僕に注目していないから。

 僕は数日を喪に服したが、その間にふつふつと湧いてきた思いがある。

 母のことを忘れてはいけないのではないか。

 母のことを知っているのは、実質、僕だけだった。僕が死ねば、母の存在は完全に失われ、どこにも残らず、忘れ去られていく。

 母に僕が渡した小さなラジオは、僕の手元へ戻ってきていた。僕はそのイヤホンを耳につけ、ラジオを聞く中で自分の思いが決して見当外れではないはずと確信に近いものを抱くようになった。

 重層記録素子の発展による、人間の記憶の保存は進められている。

 一部の有力者に限らず、高額納税者や芸術家や学者を中心に、次世代へ継承するべき記録が選抜され、一部のものは施術の危険を顧みず、自身の記憶を記録化しているという。

 僕の望みはそこまで大きなものではない。ただ僕の中にある、母の映像、音声、それにまつわる僕の感情を切り取って、保管したいだけなのだ。それ以外の記録など、僕には必要ない。僕自身が未来へ存在を残す必要はないのだ。

 僕は情報を集め始めた。

 工場では不良品の重層記録素子の紛失が話題になっていた。製造からテスト、梱包、廃棄に至るまでの各段階で製品に触れたものは記録される。その記録を当たって数人の作業員が解雇されているのは、作業員の間で噂になっていた。

 その数人に接触すると、記録素子を闇へ流す仕事をしているものと繋いでくれた。

 その男はどこにでもいそうな若者で、一見すると大学生に見える。集合住宅群に付属のオープンカフェで僕は彼と会った。

 彼は僕を見ると柔らかく微笑む。自然な表情の変化なので、整形も、アンチエイジング処置もしていない、正真正銘の若者だった。

「僕はメッセンジャーですから」

 コーヒーがテーブルにやってきて、彼はそれを一口飲んでまず、そう言った。時期は秋になろうかという頃で、外にあるテーブルは空席が目立つ。彼の言葉を聞き咎めるものはいない。

「それでも構わないよ」

 僕がそう応じると、彼は何でもないように頷いた。

 それから彼は僕に最低限の情報を教え、手順を解説した。

 想像していたことだが、工場には闇業者とつながっている作業員が複数おり、名前や所属を教えられることはないが、協力することで記録素子を持ち出せるという。相手の情報を知らないのはお互い様で、内通者は僕の身元を把握することはない。

「こう言っては失礼かもしれないけど」

 コーヒーの入ったカップを揺らしながら、青年が僕を見る。顔には笑みが浮かんでいるが、その表情は憎らしいほど落ち着いている。その表情が、彼が僕より上に立っていることを、いやでも意識させた。

「なんで、僕たちに関わろうと思ったんですか?」

「関わっちゃいけませんか」

 とっさにやり返す僕に、彼は気分を害されたようではなかった。

「なんというか、あなたは平凡で、犯罪に加担しそうじゃない。まぁ、僕たちの犯罪を暴いて当局に通報しよう、というタイプでもないけど」

「そんな人間がいるわけだ」

「裏切り者は多いね。何せ、犯罪行為をしているわけだし。みんながみんな、良心の呵責に打ち勝てるわけじゃない」

 どうもこれがこの青年なりのジョークらしい。

 僕は答えなかった。

 彼の言うことはその通りだ。僕は犯罪に加担する自分が今でも信じられない。僕を知っているものも想像しないだろう。一方で、僕が何らかの組織の調査に加わり、潜入捜査をするなどといのも、想像できないだろう。

 ぼんやりしていて、主義主張のない、まるで機械か人形のような人間。

 向上心もなく、しかし投げやりでもない。真面目には見えるが、意欲は薄く、生真面目だが、神経質ではない。

「話はもう終わっているけど、何か、確認したいことはありますか」

 青年の言葉に、僕は首を左右に振った。

 オーケー、と彼は年相応の無邪気な笑みを見せ、ぐっとコーヒーカップの中身を飲み干して席を立った。さりげなく伝票を手にして「幸運を」と囁くと離れていった。その背中を見送ることも、僕はしなかった。

 この悪巧みでうまくやれば、金が手に入る。金が手に入れば、僕の中の母を残すことができる。

 未来永劫とは言わずとも、僕が何もかもを忘れても、記録の中で母は生き続ける。

 救いでもなんでもない。

 僕のわがまま、エゴだった。

 僕の中にあるほとんど唯一の、最後に残された希望のようなものだった。

 気づいてみれば、それ以外に僕を動かすものはもう、失われていた。

 荒涼とした精神の中には、善意も悪意もない。

 そのはずだった。


(続く)

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