第8話
◆
母は病院にしばらく入院した。
それは医療が必要という部分より、入所する施設が近隣になかったがために留められたようなものだった。
過去において、記憶除去手術の後遺症にまつわる訴訟は無数に起こされ、国による補償も様々な場面を想定している。その中には当の僕の母のような場面も含まれていた。
手術費用は必要ではなくなった。母が人間としての尊厳を失う代わりに。
入所する施設も近いうちに用意される。本来は必要なかった施設の一室が。
見舞い金が支払われる。決して喜べない金が。
僕は毎日、夕方に病室を訪ねたが、母は目を閉じていることが多い。僕が声をかけると瞼がゆっくりと上り、視線がさまよう。その視線はベッドの脇に立っている僕を捉えることなく、フラフラと動き続ける。まるで声は聞こえても、見えていないように。
看護師が声をかけてくることはあるが、僕の宥めるような口調の時が多く、それは医者を責めるなと言っているようでもあり、運命を呪うなと言っているようでもあった。励ましかもしれなかったけれど、僕に必要なのは励ましではなく、救いだった。
母を救ってほしい。その一念だけがあった。
しかし誰も母を救うことはない。母はベッドに横たわり、ぼんやりと視線を漂わせ、やがて目を閉じてしまう。全くの無言、身動きひとつしない。
もう僕には、母の意思を確認する手段がなかった。
いや、ひとつだけあるのだ。
母の記憶を記録素子に移し替える。そうすれば、母が見ている光景、聞いている音、感情は記録素子に保存できる。
病院では精神記憶科が主に行う処置になるが、この病院にもその診療科は存在する。
ただ、これは記憶障害に関する手術とはわけが違う。リクスも大きければ、莫大な医療費が請求される。手術自体もだが、情報を記録するには並大抵の記録装置では容量が足りない。
必要とされるのは、重層記録素子のような最先端の超大容量記録装置になる。
重層記録素子ひとつで、僕は三年は遊んで暮らせるだろう。それだけの額は僕の手元にはなく、これから手に入る見込みもない。担保になるものがないが、仮に借金したとしても、それを返済する見込みがないは自明だ。だから誰も金を貸してくれなどしない。
僕は家に帰るたびに、そこにあるものを吟味した。
どれくらいの財産になるのか。
どれくらいの価値があるのか。
この集合住宅の一室の、質素な暮らしに最低限必要なものに、いかほどの価値もない。
それでもと僕は少しずつ身辺にあるものを処分していった。端た金が、積み重なっていく。積み重なっても、端た金は端た金だ。
テレビを打ってしまった、リビングのテーブルも椅子も売ってしまったので、僕は自分の部屋でベッドに腰掛けて食事をした。このベッドさえもいずれは売らなくてはいけないだろう。
もう皿に移すこともせず、パックそのままで食べている。それもあってか味気のしない食事を済ませ、手元にある金を確認する。ここのところの日常だった。貯蓄、見舞金、家具を売却した金。どうしても足りない。何度、勘定しても変わるものではない。
ため息を吐くと、一人の男のことが頭に浮かぶ。
内山圭吾。
彼が盗み出した記録素子。いくつ盗んだか知らないが、ひとつあればいいのだ。重層記録素子がひとつあれば、僕の苦悩は解消される。あとは施術を手配すればいいのだ。
犯罪だ。二つの犯罪。ひとつは記録素子を盗み出すという犯罪。そしてもうひとつ、秘密裏に母の記憶を写し取るのも、公の医療機関では行えない。
犯罪が恐ろしいと感じる自分はいなかった。恐ろしいと感じるのは、犯罪が露見した後だ。
僕がもし逮捕されたら、母はどうなるのか。植物状態で施設で過ごし、誰が訪ねてくることもなく、死ぬまでそこにい続けるのか。例えば、犯罪者の母として? それはあまりにも酷いことなのではないか。
母のため、という表現が頭に浮かぶ。
母のために犯罪は犯せない。しかし母のためには犯罪を選ぶべきなのではないか。
僕を駆り立てるこの誘惑、そして深い錯乱から浮かび上がってくるのは、母の以前の笑顔と、ぼんやりとしか覚えていない内山の自然な様子だった。
恐ろしかった。
僕が頭の中で犯罪を思い描いていることは、他人に露見しているのではないか。何かをきっかけとして僕の裡に潜む悪意は暴かれるのではないか。あの母の笑顔を前に、隠し通せるとは思えない。母だけは、騙せないだろう。
内山は全く自然に、犯罪をやってのけた。僕にそんな豪胆なことはできない。僕が犯罪に手を染めれば、やはりたちどころに露見するのではないか。自然にふるまえる自信がない。ぎこちなく、露見の恐怖に怯えて過ごす様は、不審を通り越して滑稽だろう。
恐ろしい。
僕には何も選べなかった。フラフラと、超えてはいけない一線を前にして、踏み出そうとしたり、足を戻したりしながら、体は不安定なほど激しく揺れている。誰かがそっと押せば、僕はよろめくように踏み出してしまいそうだし、逆に誰かが押した途端に姿勢を崩して倒れるかもしれなかった。
自分が犯罪者になる未来は想像できる気もしたし、できない気もした。
時間だけが過ぎていく。昼間は働き、夕方には病院に行き、日が暮れる頃に帰宅し、落胆の中でベッドに入る。翌日も、仕事、病院、そして落胆。
数週間のうちに母が入所する施設が用意された。病院から移送され、僕が訪ねる先が病院から、やや距離のある施設になった。
施設は新しい建物に見えたが、中に入ってみるとそこここに時間の経過を感じさせた。壁紙のくすみや、床にある些細な傷がそう印象させるようだ。
母の部屋は四人部屋で、他の三つのベッドには似たような状態の老婆が横になっている。カーテンで囲まれていることが多かったので、姿を見ることは滅多にない。
僕が訪ねて行っても、母はやはりぼんやりとしている。視線が当て所なく移動し、どうしても僕を捉えることができない。やがて目を閉じ、眠ってしまう。僕はベッドの横の椅子に座り、母の様子を見た。
救ってあげたい。
元どおりにしたい。
でもそれは無理な願いだと僕自身、気づいている。時間を逆行させることはできない。どこまでも時間は前に進んでいき、失われたものは失われたままなのだ。
僕という存在が失った能力や可能性が、二度と戻ってこないことがそれを証明している。
僕はバスに乗ることもせず、徒歩で暗くなった道を歩いた。バス代さえも節約したかった。ただ、僕が生活をするだけで金は減っていくのだ。バス代を浮かしたところで、酒やタバコを手にしないとしても、最低限の食事と水、電気で、僕の財産は減っていく。
母の施設に支払う料金も、国の補助が出ているとはいえ、やはり支出として存在するのには変わりない。
時間だけが過ぎ、僕の手元の財産は減り、僕の疲労は癒えることなく積み重なっていく。長い時間を歩くせいだろう、靴があっという間にボロボロになり、それを補修して履き、本当にダメになって新調した。
工場の仕事は変化はない。作業員で僕の事情、母のことを知っているものはいない。だから誰も何も言わない。励ますことも、心配することもない。それは僕には逆に気楽だった。誰かの励ましも心配も、傷つくだけだと想像できたから。
励ますなら、心配するなら、助けてほしい。
言葉ではなく、行動で、僕を助けてほしい。
この袋小路、隘路から僕を、母を、救い出してほしい。
僕は何度目かの夜の道を歩きながら、意味もなく遠くに見える正体不明の明かりを見据えていた。
ぼやけているが、確かにそこに明かりがある。
前を向くしかなかった。
苦しいとしても、前を。
(続く)
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