第6話

      ◆


 その日も朝から記録素子のテスト情報のチェックを続け、昼休みになった。

 いつも通りに食堂で一人で食事をしていると、不意に声をかけられた。まったく予想外だった。

「あんた、桐谷さん?」

 顔を上げると僕と同じ作業着を着ている男性が立っていた。年齢も僕とそれほど変わらない、三十代に見える。アンチエイジング処置が発展した現代でも、男性は加齢を気にしない傾向にある。僕の観察にそれほど誤差はないだろう。

 しかし、顔の年齢ではなく、その顔を知らないのが気になる。向こうは僕を知っているのに。

「そうですけど、あなたは?」

 彼は料理が載った盆を持っているが、僕の向かいの空席に座るようではない。立ったまま、わずかに身をかがめると低い声で囁いた。

「内山とは知り合い?」

 内山という知り合いは一人しかいない。内山圭吾。同じ作業をしている作業員で、たまに話をすることがある。なんでもない、世間話の域を出ない会話だが。彼も集合住宅に住んでいると聞いていたが、部屋番号は知らないし、お互いに相手を訪ねたこともない。

 知り合い、という表現がいかにも過不足ない、そういう関係性だった。

「知り合いだけど、内山さんがどうかしましたか」

 男の表情にちょっと浮かんだのは、嘲り、だろうか。

「内山ね、逮捕されたよ」

 何を言っているのか、まじまじと男の顔を見てしまったが、彼は今度こそはっきりと無言で嘲笑を浮かべた。

「逮捕って、何をしたんですか」

 まったく想像がつかなかった。乱暴そうな男ではないし、気のいい男だった。どんな犯罪で逮捕されるのだろう。すぐには犯罪行為と結びつかないほど、屈託のない男が内山だった。

「記録素子をちょろまかしたらしいぜ」

 名前を名乗っていない男はいかにも軽い調子で言った。声は顰められていたが、それがいやに、耳障りだった。まるで周りにいる全員がそれを知っていて、僕だけが知らないでいたような気がした。

 僕は情報を恵んでもらっているような錯覚があった。

「記録をごまかして、記録素子を盗んで売っていたそうだ。今日の午前中、警察の捜査員が来たらしい。事情聴取もあるそうだよ」

 ここに至っても名乗らない男に、名前を聞くべきか、迷った。でも名前を聞いてどうなる? この男と友人になれるとは思わなかったし、なりたくもない。関わりたくなかった。

「どうもありがとう」

 僕がそういうと、男はちょっとだけ鼻じろんだ様子だったが、結局、こちらに背を向けて別の集団に合流していった。

 僕は一人で食事をして、作業卓へ戻ろうとした時に背広の男に声をかけられた。この工場で背広を着ているものは珍しい。例の名前も知らない男の情報があったから、この背広の男が警察だとすぐに連想できた。

「内山圭吾さんについて、ちょっとお話を聞かせてください」

 手帳を見せてから、背広の男は丁寧な口調で言った。それは充足と余裕を感じさせて、僕は自分の不完全さを指摘されたような気がした。

 僕は会議室に連れて行かれ、背広の男と一対一で話をした。一時間もかからなかった。警察の男は「何か気づいたことがありましたら、何でもご連絡ください」と最後に付け加えた。

 作業卓へ戻り、いつものようにテスト情報の様子をじっと見つめ、集中した。

 内山はなぜ犯罪を実行したのだろう。金に困ったのだろうか。でも、何に金が必要だったのだろう。着ているものは平凡で、遊びに熱中するタイプでもない。車はないと言っていたし、ギャンブルの話は一度も触れたことがない。宝くじさえ、趣味じゃない、と否定したことがあった。

 それなのに金が必要だったのだ。

 僕たちは他人のことを知っているようで、実際にはほとんど知らない。知る術は持たない。

 暗黒時代には、人間は他人に激しく干渉し、不可侵であるはずのその記憶、感情さえも侵略された。現代では犯罪捜査の場面であっても、被疑者の記憶や感情を暴いたりはしない。

 考えてみれば、暗黒時代のきっかけとは、他人が何を考えているかわからないところから来る、恐怖のようなものが社会に蔓延していたのかもしれない。内山が逮捕された今、そのことが少しだけ、リアルに感じられた。

 いつも楽しそうに笑い、話していた身近な人間が犯罪を犯す。

 記録素子を盗む程度なら負担は少ない。例えば、殺人や傷害だったら、どうだろう。ずっと親しくしていた相手が、人を包丁で刺し殺したりしたら、不安になるのではないか。自分が殺される未来があったのではないか、と。ちょっとした間違い、ちょっとした変化で、包丁を突き立てられるのが自分だったのでは、などと。

 考えすぎなのはわかる。僕たちは他人が何を思っているかは、推測するしかない。そもそも、すぐそばにいる他人が自分や社会に害をなすのではないか、と想像すること自体が、不自然だ。そんな不安を常に意識しながら生きるのでは、ストレスで消耗するだけだろう。

 他人を疑ってはいけないわけではないが、僕たちは他人を疑わない。

 暗黒時代とは、他人を疑い、人権を侵害することで疑いを根本的に否定した時代だった。

 今は、暗黒時代ではない。僕たちは改めて、他人を尊重し、悪意がそのうちにあることさえも許容する社会を生きている。だから内山のことを深掘りするのは、褒められたことではない。

 彼は犯罪者だが、彼について僕が知っているべきことは、彼の犯罪の背景や、彼の内心ではないはずだ。犯罪を犯した人間であり、同時に僕の知り合いである、二重の存在だということ。

 内山の中にある動機は、捜査する人間が知ればいい。僕は、どこまでいっても傍観者だった。内山と接したことがあっても、犯罪者の内山に対しては傍観者の立場が変わることはない。

 仕事が終わり、僕は一人で工場を出て集合住宅への坂道を上り始めた。

 歩きながら、内山は一人暮らしだと言っていたことを思い出し、次に自分の境遇を思った時、何かが繋がった。最初、何と何が関連づけられたか、わからなかった。

 数歩進み、自然、足が止まった。

 金があれば、僕は今よりも満たされた生活ができる。

 違う。そうじゃなく。

 母に、もっと優れた治療を施せる。形ばかりの処置ではない、先端医療の手術を受けさせられるかもしれない。

 住む場所なんてどうでもいい。食事だってどうでもいい。服だって、みすぼらしくなければいいのだ。

 母が回復するなら、今より幸福に生きられるなら、それでいい。

 それで……。

 それだけで……。

 記録素子が一つ、いくらで売れたのかなんて、僕には想像もつかない。誰が買ったのかさえも。ただ少ない額ではなかっただろう。ひとつあれば、手術費用を工面できるのだろうか。

 いつの間にか僕は記録素子を持ち出す方法を考えていて、思わず頭を振っていた。

 犯罪を犯す理由はない。母のことも、僕自身のことも理由にはならない。

 歩みを再開させたが、足取りはどうしても重くなった。

 僕は内山が何を思ったかわからないように、母が何を思っているかはわからない。

 記憶力、発話能力を回復させたいと思っている、というのは多分に僕の予想、推測だ。母の本心を知ることは許されない。それは犯罪だし、人権の侵害だった。何より、母に障害を残した真なる悪行だった。

 でも、ああ……。

 母がもし、僕に頼みさえすれば、僕は何でもできるだろう。

 それが例え、罪であっても。

 僕は足を前に進め続けた。

 何も決断できず、一歩も進んでいないにも関わらず、足は一歩を刻んでいく。

 秒針が一秒を、そして次の一秒を刻んでいくように。



(続く)

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