第5話
◆
母を病院に連れて行った。
僕は自家用車を持たないけど、集合住宅の住民向けの病院施設がすぐそばにある。母はゆっくりとした足取りで、そこまで自力で歩いた。そのうち、車椅子を用意しないといけないかもしれない。集合住宅はバリアフリー化されているが、車椅子になってしまえば、母は気落ちするだろう。
できることが減っていくのは、つらいことだろうと想像できた。
病院では、記憶能力を助けるための感情書き込みと呼ばれる処置をすることになった。記憶力の補助として感情の動きを利用する処置だが、すでに四度、母はこれを受けている。そして好ましい結果は一度も出ていない。
母自身はそのことを覚えていない。記憶障害は、しかし残酷だった。少なくとも僕は、母が覚えていない現実に直面するたびは、やるせない気持ちになる。
処置はその日の午後の早い時間に行われた。麻酔が夕方には覚め、母は普段と同じように、そう、前と何も変わらなように首をかしげ、手話で、終わった? と僕に確認した。
「終わったよ。結果はこれからわかる」
僕がそう伝えた後に、看護師が今後について説明した。母は初めて聞くように耳を傾けていた。この説明を次に聴くときは、そんな顔をしないでいてくれるといいのだけど。
母は自分の足で歩いて集合住宅へ戻る道を進む。その道すがら、僕に身振りで伝えてきた。
記憶素子を埋め込む手術ができたらいいのだけど。
僕が工場で毎日のようにテストしているのは、高水準の記録素子で、一般にはほとんど普及していない。そもそも高額で、一般市民には手が出るような代物ではない。
それよりも性能を抑えた、普及版の記憶素子は少しずつ市場に出回るようになっている。医療用の記憶素子もあった。
しかし、母はどこでその存在を知ったのか。
「誰かがそんな話をしたの?」
どこかでね、と母が手を動かす。
どこかでそういうのがあるということを見て。
それはきっと、遠い記憶だろう、と僕は思った。
「医療用の記憶素子でも、結構、値が張ると思う。それに母さんの障害に合うか、どうか」
母は僕の言葉に少しうな垂れたように、こうべを垂れた。
金銭的に余裕があれば、と思ったことはある。でも僕の学歴、職歴には限界があった。資格もないのでは、賃金などたかが知れている。
僕の怠慢が、僕の怠惰が母を救えないのだろうか。
何もかもを全て投げ出して、一から出直すことはできるのか。
いや、できるわけがない。今の仕事を続けなければ、どうなる? 仕事をやめれば、程なく住まいを失う。障害を持った母を連れて、住むところを探す苦労は今の仕事に巡り会う前、嫌という程、味わったことだ。
もうあの苦しみは味わいたくない。
今の状態の方がまだマシだ。
母が顔を上げ、身振りで伝えてくる。
私、あなたの負担になっている?
「そんなことないよ」
言葉で言うのは容易い。表情や素振りに感情を見せないこともできる。
しかし僕の心の中には、葛藤がある。
もし暗黒時代、あの独裁者の時代だったら、僕はこの心の中にある感情によって、記憶を消されたかもしれない。
間違った人間として、正しい人間に作り変えられたかもしれない。
でも今の時代にそれはない。ないとしても、許される気がしない。
僕は結局、罪人なのかもしれない。
何かが足りない、何かが劣った人間。
部屋に戻り、やはりレトルトで夕食を用意した。湯気が上がるハンバーグを皿に盛り付け、白飯は茶碗に移す。味噌汁は粉末をお湯で溶いただけだった。
母と二人で食事をして、先に風呂に入った。シャワーを浴びて、出る。水道代ですら節約したかった。
リビングでは母がテレビをぼんやりと見ている。
やはりこの日の処置も意味がなかったようだった。いや、明日になれば、何か変化があるかもしれない。そう考えるのは、間違いだろうか。期待することは、間違っているのか。期待を裏切られて、苛立つのは間違いだろうか。
自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。布団を干す暇もないので、どこかカビ臭い匂いがした。
僕にできることを考えても、何も浮かばなかった。
代わりに頭の中でチカチカと瞬くのは、僕の記憶ではないそれだった。
日々、製品テストし続ける中で見る、いくつものテスト情報。
他人の記憶ですらない、紛い物の、空虚な、作り物の記憶。
はっきりした映像が浮かび、耳の奥で不意にはっきりした音声が響く。
そして感情が、僕本来の感情を揺さぶる。
強く強く、目をつむった。それで幻は遠ざかっていく。
扉の向こうから微かにテレビの音は聞こえる。しかし母の声はしない。そう、母は喋れないのだ。
不意に自分がこの世界に一人きりのような気がして、僕はベッドから起き上がった。
自分でも可笑しいほどの不安の中で、そっとドアを開ける。
リビング。椅子には母の背中がある。
母が振り返った時、瞬間、その顔が自分の母親のそれかわからなかった。ただほんの一瞬のこと、そこにいるのは間違い無く僕の母だった。
彼女が身振りで伝えてくる。
どうしたの? 何かあった?
いや、と僕は答えたけど、舌がうまく回らず、濁った音のようになった。
部屋に戻るのもバツが悪いので、僕は台所へ向かい、グラスに水を注いだ。ぐっと煽って、息を吐く。塩素の匂いが濃い水は、ひどい味だった。
幻。
幻を見ている。
記憶も感情も、夢か。
記録さえも、ある種の夢。
僕の幸福も、母の幸福も、幻で、夢。
もう一度、僕はグラスに水を注いだ。グラスの縁を超えて水があふれ、手を濡らした。
この冷たさと、肌を伝う感触は間違い無く、事実。僕が感じている現実だ。
でも、ああ、母は今、何を思っているのか。
悔しいとも悲しいとも言えない、表現不可能な感情の渦の中で、僕はしばらく、グラスとそこに注がれ、溢れ続ける水を見ていた。
(続く)
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