第4話

      ◆


 重層記録素子のテストは、擬似的な情報を流し込むことで行われる。

 それも容易な情報ではない。テスト用の短い人生をそこに入力し、正確に記録されているかを確認する。映像、音声、感情、それに付随する雑情報まで、細部まで確認する必要がある。

 重層記録素子の不具合は、そこに記録される情報の不具合に直結する。不良品が出ることは他の工業製品と比べて、特別に重大な事態だった。

 僕はゴーグルをつけ、耳にイヤホンをつける。ゴーグルの内側には視覚経由で感情情報を入力する発信レンズが取り付けられている。

 まずはレーンから手のひら大の重層記録素子を取り上げ、テーブルの上の端末からテスト情報を入力する。そして端末経由で今度は重層記録素子の内部の情報を僕が追体験する。

 テスト情報なので、たいしたものではない。

 端末がランダムに入力するテスト情報は、全部で六種類あり、のどかな田園風景や、人が行き交う都市部のターミナル駅、旅行中らしい飛行機内、海の真ん中のクルーズ船、どこかの事務所、といったところだ。毎回、些細な変化が出るのだが、それは検査員にテスト情報に慣れさせないための、正確なテストをさせるための工夫だという。

 僕は記録素子の中身を感情まで含めて理解し、今度は卓上の端末からの情報と照らし合わせる。

 はっきり言って、作り物とはいえ自分のそれではない情報を確認するのは過酷だ。特に感情情報を確認し続けるのは、適正のないものが繰り返し行うと発狂するとまで言われる。

 テスト情報の感情、それを確認するための感情、その二つが自分の感情とは別に頭の中に想起されるのは、頭の裏側がムズムズするような違和感がある。

 とにかく、テスト情報を読み取り、それが正確か確認し、合格となれば重層記録素子をクリアにして、ベルトコンベアーの下の段に乗せる。

 これをひたすら繰り返す。休憩は昼食のための一時間と、午前と午後にそれぞれ十五分。朝の八時半から始め、十七時まで。労働組合の働きかけよりも強力な政府の働きかけで、残業などは一切ない。しかし薄給だった。そこまでは政府も手が出せないでいる。

 休憩時間の大半は作業卓にいる。じっとして目をつむって、無心でいるのが一番心休まる。自分自身と向き合うことで、少しだけテスト情報から距離を置ける。自分自身の本来の記憶、本来の感情が、あまりにも頼りなく思える時は、特にじっとしていた。

 この仕事をしていると、いかに簡単に記憶を操作できるか、その容易さに恐怖を覚えることもある。

 暗黒時代における記録と記憶の管理と支配が、今の時代でも決して不可能ではないと思い知らされる。それが悪、許しがたい巨悪であると誰もが理解しているから行われないだけで、やろうと思えば、できてしまうのだ。

 あの時代における善と悪と、僕の時代における善と悪はまるで違う。

 しかし生きているのは、同じ人間だった。人間という存在が進化したわけではない。むしろ何も変わっていない。変わったのは意識だけだ。その変化は途方もない恐怖と疲労からきたものかもしれなかった。

 あの時代を終わらせた運動を、解放運動、と呼ぶことがあるが、その始まりは定かではない。最初に始めたものは当局に拘束され、記憶を奪われ、植物状態になったという説が有力なようだ。もっとも解放運動の中枢にいたものたちは、伝説めいたことを後の世に伝えている。

 曰く、始まりの一人は記憶を奪われたが、死ぬまで独裁者のことを認めなかった。

 あまりにも大雑把な逸話で、今の僕の世代でまともに受け取るものはいない。それでもこの逸話に励まされた人がいるのも事実だろう。情報とは本来、そのようなものなのだ。信じたいものを信じて、信じたくないものからは目をそらす。その自由が奪われたのが、暗黒時代でもあったのだろう。

 昼休みには、食堂へ行って静かに食事をする。周囲にいる作業員もどこか憔悴しているようで、賑やかなのはほんの一部だ。一人でいるものが多い。この職場では協調性はあまり重視されず、集団行動も省かれていた。朝礼などないし、食事会などもない。連絡は事務から直接、各作業員の個人の端末へ届くので、作業員同士で連絡先を交換するのも部分的なものだ。僕も同僚で連絡先を知っている相手は数人しかいない。

 昼食が終われば、また作業卓へ戻り、時間までをジッとして過ごす。

 夕方までテスト信号の確認を続け、時刻になればチャイムが鳴り、瞬間、室内にはホッとした空気が流れる。みんなが一斉に息を吐く音が重なり、短いどよめきのようなものが生まれるのが常だった。

 めいめいに立ち上がり、そこここで声を掛け合って退勤していく。身分証を読み取らせて外へ出ると、すでに夕日が周囲を染めている。

 集合住宅へ戻るまでの足取りは、仕事を始めた最初の頃よりずっと重い。

 僕と母はこの土地の生まれではない。すでに故人の父も違う。仕事を求めて流れてきたのだ。今のテストの仕事は、集合住宅を相場より安く借りることができたので、文句は言えない。本当なら母の面倒を見てくれる施設でも探せればいいのだが、稼ぎもなければ、貯蓄もなかった。

 誰が悪いわけでもなく、そういう境遇の一人、に自分がなっただけだった。世の中には同じ立場にいるものが、数限りなくいる。それは成功者が意外に多く存在し、平凡な日々を生きるものは無数に存在するのと、全く同じだ。

 どこにも基準などなく、理由も原因もなく、しかし如実に発生する格差、あるいは階級。

 努力すれば、才能があれば乗り越えられる、という美談もあるが、僕はそれを信じることはできなかった。

 別に自分がまともな生活を送れなくてもいい。

 最低限の生活を送れればいい。

 それだけなのだ。僕が思っていること、僕が望んでいることは。

 集合住宅が並ぶ方へ、足を送っていく。坂道は大した傾斜ではない。

 しかしそのわずかな傾斜が、さらに足を重くさせた。



(続く)

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