第3話

      ◆


 早朝に起きて、母の朝食と昼食の用意をしてから家を出た。

 集合住宅は高台にあり、二十棟ほどが日当たりを考慮して並んでいる。建物の間には網目状に道が整備され、各所に公園や噴水、東屋が配置されている。すぐそばには学校がある。集合住宅で暮らす子どものための小中高の一貫校だった。

 僕が働く工場は丘を下る途中にある。集合住宅を運営しているのは複数の企業が出資した組織で、僕を雇っている工場は、その企業のうちの一つである六合精密の下請け会社だった。

 六合精密の工場はやはり高台にあった。地震や大雨などの自然災害を考慮しているのだが、僕の勤める工場はそこまで安全を考慮されていない。重要な設備もなければ、働いているのもうんざりするほど存在する、何者でもない人間だった。

 身分証をかざして工場に入ると、それでタイムスタンプが押されるが、身分証に内蔵されている素子で、その持ち主がどこにいるかは会社によって把握されるという噂がまことしやかに囁かれていた。

 その話題には僕たちの世代は「前時代じゃあるまいし」と、それぞれに思うところはありながら、笑うことができた。しかし上の世代は真剣な様子で身分証を検めるのだ。素子なんて見えやしないのに。

 僕たちより上の世代は、情報の管理、記録と記憶が支配された時代から抜け出せていない。それほど徹底した支配だったのだ。情報ネットワーク上に限らず、手元の日記帳に恨みつらみを書きつけることさえも禁止されたし、重罪だった。それどころか、心の片隅にささやか悪意を抱くことさえも許されなかった。

 密告は奨励されたが、それよりも誰もが恐怖によって、情報から遠ざかろうとした。

 知らなければ済むのだ。

 他人の悪意も、自分の中にある悪意も。

 そして悪意を記憶してしまったものは、記憶を意図的に消した。自ら、もしくは親兄弟、あるいは社会によって。

 悪をその内に刻んでいる者は、病根であり、破滅をもたらすと誰もが思っていた。悪の連鎖はあまりにも容易に発生し、周囲を巻き込むものだった。怒りは憎しみを呼び、憎しみはまた憎しみを呼ぶ。

 暴力に発展することはない。そう、そこに存在した暴力は、例えば殴る蹴るではなく、記憶を消すということだった。その暴力はあるいは、どんな暴力よりも残酷だったかもしれない。

 その暴力は今では犯罪として禁じられている。あの時代は暗黒時代などと呼ばれ、しかし今でも、ある種の恐怖を人々に与えるのだ。

「よお、桐谷」

 同僚が声をかけてくる。

「おはよう」

「おはようさん。例の噂、聞いているかい」

 同僚の言葉に、何のこと? と確認すると、彼は困ったように笑う。

「政府の発表だよ。重層記憶素子の最先端の奴で、人間を記録して永久に残す、っていう奴」

「いや、聞いていない。でも、うちの製品を見る限り、容量としては不可能じゃないね。問題はどうやって劣化を防ぐかじゃないかな」

 ご明察、と同僚が僕の背中を叩く。

 重層記憶素子と呼ばれる記録装置は、古い時代の記録装置など寄せ付けないほどの、莫大な情報を記録できる。

 技術革新に次ぐ技術革新の結果、手のひらに収まるサイズの素子に、その人の人生の全てが記録できるとまで謳われていた。

 人生の全て、というのは、誇張表現ではない。

 人生というものが何を意味するかは、人によって違うが、人生を構築する情報の全ては重層記録素子に記録できる。記憶されている限りの映像、音声に限らず、その全てに付属する感情までもが記録可能だった。

 これは工学的な発展と同時に、医療の発展が同時期に出現したことを意味する。

 暗黒時代と呼ばれた時間を生きた人々の、損なわれた記憶を回復させるための研究がそれを後押しした。

 研究者と技術者、そして被験体である無数の人々、彼らが感情というものの正体に向かって、わずかずつにだが技術を進ませていった。今では人間が一から擬似的な感情を生み出す実験が行われている。そこから分派した研究が、感情を情報化し、記録する研究だった。

 現在では、重層記録素子に頭の中にある映像や音声を写し取るのと同時に、そこに付随する感情を解析し、記録できるのだ。これを人生の全てを記録すると表現するのは、決して過剰ではないだろう。

 しかし、と僕は思っていた。

 仮に誰かの人生をすべて記録して、それでどうなるだろう。

 人間は今まで、様々なものに記録をつけてきた。千年以上昔から、人々は紙や木に記録をつけた。もっと古い時代には岩に文字を刻みさえした。

 だがそれで、過去を生きた誰かを完全に理解することができただろうか。

 いや、できない。

 では、人生の全てを覗き見ること、徹底的に理解することができて、その人になれるのか。

 人間と呼ぶべきものは、その情報にあるのではない、と僕は思うことがある。

 母を見ていると、そう思うのだ。

 母は情報をうまく取り込むこともできなけれど、頭に残っている情報を自在に操ることも難しい。

 しかし母の為人を知るには、彼女の両手の動きと表情を見ればいい。たったそれだけのことに、母という人間が現れてくる。そしてたったそれだけのことの積み重ねが、新しい母を僕の前に常に示しているのだ。

 情報は情報であり、それはもう、凍りついているのと同じなのではないか。

 劣化することはあっても、発展することはない。

 ただ、図書館のようなものだと言われてしまえば、僕に反論の余地はないのも事実だった。

 過去を生きた人々が積み重ねた知恵の集積。

 図書館に並ぶ書籍は、新たに書き加えられることはほとんどない。それは情報が凍結しているのと同じことだ。その凍結した情報には、それ相応の価値があると言える。

 結局、人間は情報を残すものだし、情報を残すことによって前進するのかもしれない。

 同僚は僕が口にした劣化についての意見に、頻繁に素子を交換すればいい、と実に単純な回答をした。それは不可能ではないけれど、素子から素子へ情報を移すことで、物理的な劣化だけではなく、情報そのものとしても劣化が起きる気がした。もちろんそれは、遥か未来のことだろうけど。

 仕事が始まる前に話を切り上げ、作業卓についた。右側に小さなベルトコンベアーがあり、上下で二段になっている。上から新しい製品が流れてきて、検査が終われば下のレーンに流す仕組みだ。

 卓は無数に並んでおり、数は簡単には想像できない。僕のような作業員は百人を超えるだろう。

 やがてチャイムが鳴り、仕事が始まる。

 重層記録素子に、偽物の人生を流し込む仕事が。



(続く)

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