第2話

       ◆


 僕は仕事から帰り、集合住宅の扉を開けようとした。

 しかしエラー音が鳴る。個人情報の再確認を埋め込み式の小型端末が要求してくる。ドアノブを握り直す。指紋が読み取れない、別の手段で個人認証をするように音声が続く。

 仕方なく十六桁の暗証番号を入力し、さらに国が管理するデータベースの個人番号を入力する。それでやっと錠が外れた。

 軽合金でできているはずの扉が嫌に重く感じる。それなのに後ろ手で閉める時は頼りないほど軽い音がする。錠が自動でかかる音がした。

「ただいま」

 声をかけて奥へ進む。ユニットバスに通じるドアがある短い廊下の先は、すぐにリビングだ。

 テーブルの上にはみかんが入ったカゴが置かれている。椅子に座った母はこちらを見ることなく、壁にあるテレビをじっと見据えている。

「ただいま、母さん」

 もう一度、声をかけると母が緩慢にこちらを振り返った。

 その両手が動く。手話だった。

 母は耳が聞こえないわけではない。発話能力が失われているだけで、若い頃は普通に喋っていたという。

 お帰りなさい、という身振りに、僕は頷いてからテレビの方を見る。

 なんでもないニュース番組だった。報道されているのは遠い国の内戦の情報だった。

 母が手を動かす。

 アメリカという国は、どういう国だったかしら。

 僕は笑っている顔を意識して作りながら、テーブルの上のリモコンを手に取り、テレビに辞書機能で呼び出した情報を表示させる。母が、ありがとう、という手の動きの後、テレビを見つめ始める。

 リビングの奥の私室に入り、僕は作業着を脱いで、部屋着に着替えた。

 リビングに戻ると、まだ母はテレビを見ていた。その視線がこちらに戻る。申し訳なさそうな顔。それで察して、僕はリモコンで辞書に登録されているアメリカの情報の文章を、下へスクロールさせた。母がまた、ありがとう、と手を動かす。

 僕はキッチンへ移動し、レトルトの夕食を用意し始めた。

 母は重い障害を負っている。それは記憶にまつわるもので、発話能力が喪失しているのも、そこに理由がある。テレビの操作ができないのもそうだ。

 この国では四十年前まで、奇妙な政体が敷かれていた。

 一人の男が統率した国家では、情報が完全に管理された。

 記録に限らず、記憶さえも。

 母は三十になろうかという頃に、国によって記憶の整理を受けた。母は国家によって記憶の一部を永遠に失い、同時に生活に必要ないくつもの能力も失った。手話でさえも長い苦労の末に身につけたのだ。

 今でも医者には通っているが、最先端の医療でも母の能力を取り戻すことはできていない。平均寿命が八十代で前後していることも考えれば、もう残された時間は短い。

 母はそれほど深刻そうでもなく、このままでいいかもしれない、とこのところ表現することが多い。僕にはそれがどこか、敗北のような気がして、反射的に、繰り返し、母を励ますのだった。

 しかし、僕にできることはそれ以外にないのが現実だった。

 僕の稼ぎはわずかなもので、最先端の医療を受けるのに必要な費用は、容易には工面できない。今では国から支払われる記憶の除去にまつわる障害者への支援金で、やっと日々の医療費と生活費の一部になっている。母は障害のために医療保険に入れないでいるのも大きな要素だった。

 つまり生活するのが精一杯で、現状を打破することはできない。

 レトルトが電子レンジの中で温まる。カレーと白飯を同時に温めたので、素早く皿に移し、簡単な食事が出来上がった。

 テーブルへ戻ると、母がテレビのリモコンを持っていて、思わず息を飲んだ。

 覚えることができなかった、リモコンの使い方に気づいたのだろうか。

 母の手がボタンを押す。音量が上がり、さらに上がる。

 僕はテーブルに皿を置いて、母からそっとリモコンを受け取って、音量を下げた。

 リモコンの使い方を思い出したわけではない。ただ意味もなく、適当にボタンを押しただけだった。今までにも似たようなことは何度もあった。その度にありもしない希望がはっきりと見え、そして次には影もなく霧散していく。

 母が申し訳なさそうに、手話で何かを伝えようとしたが僕は「食べよう」と母の前に皿を押し出し、視線を逸らすしかなかった。

 テーブルで向かい合い、しばらく、無言だった。

 ニュースでは、国家の計画として、次世代に情報を引き継ぐ手法として検討されている、記憶装置にまつわる報道が行われていた。

 重層記録素子と呼ばれるそれは、最先端の工学と医学の結晶である。

 僕はその存在をよく知っていた。

 何故なら、僕がしている仕事こそ、重層記録素子の製品チェックだからだ。小さな工場で、ひたすら素子の不具合を探す不毛な仕事。

 ニュースキャスターは明るい表情で喋っているが、僕にとってはどうでもよかった。

 母の失われた記憶は戻らず、母の失われた能力も戻らない。

 僕の生活、僕の未来が開けるわけでもない。

 全てが行き詰まっていた。

 どん底の、どん詰まりだ。

 僕はテレビのチャンネルを変えた。野球が映るが、チャンネルをもう一度、変える。母には野球のルールの記憶がない。母を傷つけること、その記憶の欠如と不完全性を意識させることは、したくなかった。

 音楽番組、これもダメだ。クイズ番組、これもダメ。歴史を検証する番組、これもダメ。

 僕と母が揃って笑顔になれる番組は、どこにも存在しなかった。



(続く)

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