第17話
◆
夏休みの終盤、僕は彼女と再び顔を合わせた。
でも場所は最初とは別の場所で、もっと現代的な街だった。
まるで普通の高校生同士のように、二人で食事をして、書店の棚の間を並んで歩き、雑貨屋を冷やかし、カフェでコーヒーを飲み、そして公園に落ち着いた。
僕も彼女も、森川雛子については話さないでいた。
森川雛子は虐待を受けた末に死亡し、実の母親と、その交際相手の男性は雛子が生きていると見せかけて、奨学金を受け取っていた。雛子の代わりに学校に通学していたのは、自己学習機能を持つ人工知能だった。声さえも精密に再現していた。
装置が高性能な以外は、どこにでもあるような、家庭内暴力と、金銭目当てのお粗末な詐欺だった。
学校では集会が開かれたし、保護者の会合も開かれた。
でもそれだけだ。どうしようもない。今更、どうしようもなかった。
命は失われ、戻ってくることはない。
僕と彼女は公園のベンチの日陰を選んで、自然、黙って並んでいた。
「匂いのことを、考えている」
僕がそう言葉にすると、彼女が「あのことね」と小さく笑みを見せた。
それは、さみしげな笑みだった。
「死体の匂い、ってわけじゃないはずだ。僕は何も感じなかった」
「そう、死体の匂いじゃない。私が感じたのは、暴力の匂い、かしらね」
暴力の匂い。
「僕にはわからなかった」
「それが普通よ。普通の人は気付かないもの」
見て、と彼女がこの日も着ていた長袖の服の、その袖をめくり上げた。
彼女に腕には、幾つもの火傷の跡があった。たばこを押しつけられたようだ。
「実体験に基づく、推測だったってこと。あなたはわからなくても仕方ない」
僕は言葉を失っていた。
「気にしないで、よくあることでしょう」
「そういうわけには……」
彼女が口を開く。
私は生きている。
そう聞こえた。
彼女の声は小さすぎて風に揺れる枝葉の擦れる音に、かき消されていたけど、そう聞こえた。
「友達とは連絡している?」
彼女が袖を戻しながら話題を変えた。
「だいぶ落ち込んでいる。それは僕も同じだけど」
「そうね。それが普通」
僕は彼女の顔をこの時は見れなかった。
アバターではない彼女がどんな表情でいるか、見たくなかった。
アバターは自在に表情を変える。それも意図的に。
でも実際の表情はそうはいかない。自由に変えることも、変えないことも許されない。
僕自身の表情も、今、どうなっているのだろう。
現実では、素顔を晒さないことは許されない。
現実での交流とは、生身の、何も隠せない状態から始まり、その上に成り立っているのだ。
「あなたが思ったよりも元気そうで、安心したわ」
「元気でもないよ」
「そうかしら」
不意に彼女の手が伸びてきて、僕の頬をつねった。僕はされるがままにして、彼女は短く笑った。
アバターが発する笑い声と、少し違う。
ここは現実で、彼女も実在している。
その裏で、アバターとしての彼女も実在しているのだろう。
幾重にも重なっているのが、この世界なのか。
「あなた、私の名前を呼ぼうとしないのは、何故なの?」
「別に、深い意味はない」
「私はあなたのこと、ちゃんと、隼雄くん、って呼びたいかな。私のことも、杏奈さん、みたいに呼んで。ここは仮想空間じゃなく、現実なんだから」
そうだな、と素直に思えた。
「わかったよ、秋山さん」
ちょっとぉ、と彼女、秋山杏奈は不満げだった。
僕は友達を一人、失った。
あの女の子は、いつ、あの子ではなくなったのか。
僕が失ったのは、女の子一人と、その影なのかもしれなかった。
名前もない、あの声の主。
実体を持たない、存在。
まさしく影だった。その影との交流は、虚構で、無意味だったのかは、結論が出なかった。
行きましょうか、と彼女がベンチから立ち上がった。どこへ向かうのか、彼女が決めるのだろう。僕も立ち上がり、日なたに出た彼女を追った。
午後の日差しの下で、影がはっきりと地面に落ちている。
彼女が消えれば、影も消える。
僕は目の前にいる少女の背中を追った。
彼女が消えないようにと、心の底から思った。
現実と仮想の間隙に、消えないように。
そっと手を伸ばして、すがるように僕は彼女の手を取った。
確かな肉体。柔らかい感触。かすかな温もり。
秋山杏奈は驚きもせずに手を握り返し、こちらに笑みを見せる。
やっと僕は彼女の笑顔を見た。
その笑顔は、アバターのそれよりも魅力的だった。
僕もきっと笑顔になったはずだ。
実際の僕の表情として。
感情の発露として。
影には映らない、感情がそこにあるはずだ。
影に、感情はないのだ。
そこが少し、寂しく、悲しかった。
(了)
影、インサイダー 和泉茉樹 @idumimaki
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