第16話
◆
珍しいほどの緊張に、僕は落ち着かなかった。
滅多に乗ることのない電車、それも初めての路線のシートもやっぱり落ち着かなかった。
窓の外は午前の瑞々しい光に包まれ、空気にはすでに熱がこもりはじめているはずだが、電車内は冷房で涼しかった。
さっきまでの特急電車の車内が冷えすぎていたのを意識しながら、僕はじっと見知らぬ土地の光景に視線を送っていた。
僕は彼女と会うことにした。
実際にはそれは彼女からの提案で、僕が森川雛子に会ってみたい、と彼女に提案した時に言い出したのだ。
「住所を調べた責任は私にあるし、まぁ、矛先は多いほうがいいでしょう。的が分散して」
そんな言葉があったけど、僕としては心強い一方、今までに一度も現実で対面していない彼女と会うことに、不安もあった。
彼女の顔はアバターでおおよそ想像がつく。声も知っている。話し方や、趣味、好きなものも。
でもそれはVR空間での彼女で、現実の彼女と重なる部分もあれば、決して重ならない部分もあるはずだ。
現実での彼女が本当の彼女のはずなのに、僕の中ではアバターの彼女の方が馴染み深かった。
僕は彼女に会う。そのはずなのに、実際に誰と会うのか、会うという表現が正しいのか、時間が経つごとに、電車が駅を通り過ぎていくごとに、わからなくなった。
やがて目的の駅で止まる。無人駅ではないようだ。
改札を抜けて、駅舎を出るとロータリーがあり、申し訳程度にタクシーが止まっている。駅の周りは閑散として、古い商店が見えてもシャッターが下りている。駅舎だけが現代的で、表現のしようのない時間のズレ、時代のズレを感じた。
僕は待ち合わせの場所、駅舎の裏手にある図書館へ向かった。彼女からの指定だったのだ。そこまで彼女は調べていた。
僕は一度、跨線橋で線路を越え、図書館に入った。外が暑かったことに、館内のほどほどの冷房で気づいた。
あとは彼女からの連絡を待つだけでいい。
じっとしている気にもなれず、僕は海外小説の棚を探した。学校で読みかけの本の、実際の書籍があれば、と思ったのだ。
海外小説の棚はそれほど広くはない。
そこに女の子が一人、立っていた。
小柄で、長い髪の毛は綺麗に巻かれて背中へ降りている。
本を読んでいる姿勢は背筋が伸びていて、どこか神々しい気もした。
それは僕の認識による補正があっただろうけど。
僕の気配に彼女が顔を上げ、こちらを向き、微笑む。
「初めまして、というべきかな」
その静かな声は図書館という空間によくなじんでいた。
「どうも」
僕は緊張を忘れていたけど、逆に気を飲まれていただけだった。
彼女がアバターとは違う、本物の笑みを見せて本棚に書籍を戻すとこっちへやってくる。近づくと、余計に背が低いのがわかった。
「結構、上背があるね」
「高一でも一歳年上だから」
そんなものかしらね、と彼女はその姿に似合わない、どこか深い経験を重ねたことを感じさせる響きの声で答える。
「行こうか」
彼女の歩き方も、やはりアバターのそれとは違う。実際の彼女はかすかに左右に揺れて歩く。それさえも何か、特別に見えた。
VR空間にはない、現実世界だけの、特別な要素。
二人で外へ出る。彼女は長袖の服を着ていたけど、日傘を差した。
「住所はおおよそわかっているけど、入り組んでいるみたいね」
歩きながらの彼女の言葉に、僕は別の言葉で返した。
「なんでここまでするわけ?」
「え? あなたは乗り気じゃないの?」
「他人のプライベートだ。首をつっこむのは、気が進まない」
ここまで来て、と自分でも思った。
彼女はでもそれを言わなかった。僕の中の矛盾、相反する思考を知っているかのように。
「矛先の半分は、私が引き受けるから」
彼女はそう言って、僕に穏やかな視線を注いで目を細める。
結局、僕は彼女についていった。
到着したのは小さなアパートだった。二階建てで、各階に二部屋だけ。一階の片方が森川雛子の住まいだった。もちろん一人暮らしではなく、おそらく両親と暮らしているのだろう。
建物を前にすると、自分が連絡もせず、不意打ちで訪ねて行っていることが気にかかった。
まるで森川雛子を怒らせようとしているみたいだ。
僕を導いた彼女はすでにドアの間に立ち、あっさりとベルを鳴らした。そう、古い建物でインターホンなどは付いていない。
返事はない。
留守ではないか、と言おうとした時には、彼女はもう一回、ベルを鳴らしていた。
今度は人の気配がして、ドアが開いた。
しかしかなり乱暴に。
「どなた?」
そこにいるのは少女、ではなく、四十代ほどの女性だった。髪の毛は明るい茶色に染められていて、化粧がわずかに顔に残っていて、不良品のレンズを間に挟んだように歪んで見えた。
僕はあっけにとられていたが、微笑みながら彼女がすぐに質問した。
「森川雛子さんにご用なんですけど」
女性の表情が一瞬、引きつってから「いないよ」と短い返事があった。
「御在宅ではないのですか?」
「出かけているんだよ。帰ってくるのは夕方」
「どちらへ出かけているのでしょうか」
「知らない。何も言わずに出て行ったから。もういい?」
僕も彼女も、反論しなかった。ドアが閉められ、鍵がかけられた。
僕と彼女は建物を離れる。僕はさりげなくさっきの部屋の集合ポストの名札を見た。森川ではない、別の苗字だ。
僕は何を口にするべき考えながら道を歩いたが、彼女が不意に足を止めて携帯端末を取り出した。
どうするのかと思っていると、どこかと連絡を取り、どうやらそれが警察だと僕にも分かった。警察に連絡する理由がわからなかったが、心底から驚いたのは彼女が「激しい物音と悲鳴がして」などとありもしないことを口にしたからだ。
通話が終わって、彼女は足を止めたまま、じっと立っているので僕も動けなかった。
「警察に」やっと僕は言葉にした。「なんで通報したの?」
「匂い、かな」
彼女はちょっと目を伏せた。
「匂い?」
そう、としか彼女は答えなかった。
やがて本当に警察がやってきた。パトカーだった。僕と彼女はこっそりとその様子を見ていたけど、想定外の事態になった。
扉のところでさっきの女性と警官が押し問答をしていたのが、警官が室内に入った後、急にその警官が出てきてどこかと連絡を取り始めた。
後はあっという間だ。パトカーがさらに二台来て、女性と、部屋から出てきた男性がその一台に乗せられた。
呆気にとられている僕の前で、見る間に警官はさらに増え、規制線が引かれた。例の黄色いテープを僕は初めて実際に見た。
僕と彼女はやがて野次馬の一人になり、しかし時間もないのでその場を離れた。
僕は家に帰らないといけなかった。それは彼女も同じだ。
彼女は別れ際に「また会いましょうね」と言った。その表情を表現する言葉を、僕は持ち合わせていない。
森川雛子の件に彼女はこの日、触れないままだった。
僕は夜遅くに帰宅して、ニュースでそれを見た。
高校生がアパートの一室で遺体で発見されたことをニュースキャスターは無感情に伝えている。
その遺体は、冷蔵庫に封じ込められていた。
僕はテレビの前で、ただ突っ立っていた。
(続く)
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