第10話
◆
まずいことになった、と俊範が言ったのは、僕が教室を出たところで、彼のアバターが横に並んできた。
声は小さいが、近くにいた別の生徒が、おやというようにこちらを見た。さりげなく僕が遠ざかったからいいものの、俊範の声量は変化しなかった。
「アプリがおかしなことを言い始めた」
「例のアプリ?」
学校の敷地はそれほど広くない。歩いて行ける範囲も限られる。談話室に自然と足を向けた。と言っても実際に歩くわけではなく、両手の指にはまっているキャップでアバターを進ませているだけだ。
「例のアプリだ。ログを解析した結果、ある時からまるで違う文脈を使っている、と言い出している」
思わず俊範の方を見たけど、もちろん、彼の実際の表情は見えない。
見えたのはほとんど無感情のアバターの表情だった。
僕が顔の向きを変えたせいで、二人のアバターがぶつかりそうになる。それで何が変わるわけではない。動きが強制的に停止するだけで、息遣いが聞こえるなんてありえない。
静寂、静止。
僕は俊範に向き直った。
「本気で言っている?」
「アプリは本気だ」
「内藤はどういう判断?」
わずかに彼のアバターが俯く。現実の彼自身がうつむいた動きを、ゴーグルが読み取っているのだ。
「わからない。そもそもからして、理由がわからない」
「学校をサボっている、という意味だよね」
「それも欠席したりせず、授業に別人を送り込んでいる。どういう意味があるだろう? 何か、名案というか、ありそうな回答は上村の中にないか?」
あるわけない。
ただ、実際には最も明快な選択肢があった。
「あまり深く考えずに、本人に聞けばいい」
「おいおい、この学校にいるのは森川雛子に似せた誰かだよ、真実を口にするわけがない」
「三日後には修学旅行だろう」
この時の俊範としての反応しては、ポカーン、だっただろう。
僕は丁寧に解説してやる。というか、解説するまでもない。
「三日後には修学旅行で、つまり現実で顔を合わせる。まさか修学旅行に替え玉は送り込めない。全く同じ声の持ち主、例えば双子の姉妹がいれば出来るかもしれないけど、ほぼ無理だ。それに僕と内藤は、森川さんと同じグループだ。他に誰もいないところで、それとなく確認すればいい」
おいおい、と俊範が声を漏らすが、それ以上の言葉はない。
僕の意見を吟味しているのだろうけど、こんなに楽な解決法はないだろう。
あまり考えたくないが、俊範が使っているアプリが雛子の替え玉が人工知能だと見ているとしても、現実世界において対面して、人工知能に代理で喋らせるのは意味不明だ。なら、森川雛子は、自然と森川雛子自身として僕たちの前に現れる。
「お前、かなり大胆だな」
俊範がやっと言葉にした。
「それでよく、周りに嫌われなかったな」
嫌われたよ、とは言わないでおいた。思い出したくない過去に連結するのは目に見えている。
「でもこれで、問題は解決する。一ヶ月以上を空費したね、内藤は」
「嫌な予感する、と言ったら、俺の正気を疑うか?」
その俊範の言葉に続く言葉は、僕の中にもあった。
「起こらないことを祈るしかないね」
先を読んだ僕の返答に、だな、と俊範もこの場では同意した。
僕が危惧すること、そして俊範が思いついたことは、森川雛子が修学旅行を欠席する、という可能性だった。しかし今日、実際に雛子と話をした様子では体調も良さそうだし、修学旅行にも乗り気なようだった。
つまり欠席する予兆はない。
それどころか、現実の僕や俊範がどんな顔をしていて、どんな服を着てくるか、気にしていたほどだ。
それが全て演技だったとしたら、と思うと、嫌な予感どころではない。
不気味、と言ってもいいだろう。
「それで上村はどんな服装で行く?」
俊範が急に話題を変えたのも、僕と同じ不気味さを意識したからかもしれない。
「別に、適当な服で行くよ」
「つまりお前は、容易に服が手に入らないほどの巨漢ではない、ということだ」
「それも、会えばわかる」
初めての修学旅行は、自然、クラスメイトと初めて対面する行事になる。欠席するものも少なくはないが、出席するものの大半が気にするのが、外見、容姿のことだ。
アバターの顔は本人の写真をもとにしているけど、戯画化している傾向にあり、どこか不自然だった。僕だって実際の顔とアバターとではまるで違う。そしてアバターは背丈や体格をほとんど表現できない。
だから、クラスメイトの誰かがものすごく太っていたり、あるいはものすごく痩せているとしても、それは会ってみるまでわからないし、欠席するものは、そういう容姿を明かしたくない、という意見も含まれる。
入学式ですらVR空間で行ったのに、現実世界からは完全に切り離せない要素があるのを示すのが、各学年ごとにある修学旅行の意義ということか。
「ま、気楽にいこうぜ、相棒」
俊範のアバターが拳を僕のアバターにぶつけるけど、暴力行為は禁止です、という見当はずれのポップが出現した。ジョークとはいえ、同じ行為を繰り返すと本式の警告を受ける。
「別に俺はお前がどんな奴で、どんな服装をしていても軽蔑しないからな」
「それはこっちも同じだよ」
そう応じてから、ちょっとジョークを言う気になった。
「僕が二ヶ月も髭を伸ばしているとしても、軽蔑しない?」
「しないな。俺だって伸ばしている」
お互いにクスクスと笑ってしまうのは、あまりにも低レベルなジョークだったからだ。
顔が見えないなりのジョークである。この手のジョークはいろいろなバリエーションがあるが、中には不謹慎、嫌がらせじみたものもあり、ここからのトラブルは稀に起こるようだ。
ともかく、僕と俊範の間の信頼関係は、こうして確認された。
この確認はお互いが、森川雛子と対面する時の協調を確認するような意味もあったかもしれない。
僕は俊範がどんな人間でも、きっと受け入れるだろう。
それは雛子だって、同じだ。
僕たちは友人同士だった。
それはどんなものよりも、あるいは強固なつながりだと、ぼくは思った。
この時は、そう思ったのだ、間違いなく。
(続く)
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