第5話
◆
「こんばんは、という時間でもないな」
僕がそう答えると、彼女のアバターがほどほどの笑みを浮かべる。
微笑、というものがよく再現されていた。この学校のシステムでは、アバターの表情の微調整が出来る。大笑いもできれば、薄ら笑いも出来る。
彼女の繊細な調整は見事と言うしかない。
「そうかもね。ここはまだ、明るいし」
談話室には形として窓があるように映像が組み立てられてる。その窓の向こうは赤く染まっているが、まだ日没には時間がありそうな明るさだった。遠くに街並みが見えるが、それはどこの街でもない、仮想の街だった。
しかしその街も今は夕日で一面、朱色に変わっていた。
何がリアルで、どこまでがリアルなんだろう。何をリアルとして捉えればいいか、疑問を感じるのは僕だけだろうか。
夕日が街を染めるのは、現実世界でも起こりうる。
でもこの仮想の光景は、現実ではない。
現実を真似た、フィクション。
なぜ、フィクションなのに現実に近づけようとするのだろう。
あまりにも人工的だとおかしいと、誰かが言ったのだろうか。
「今日は何を読んでいるの?」
彼女の言葉に、「水滸伝」と僕は短く答える。
僕の言葉に、ちょっとだけ目を見開き、すぐに穏やかな笑みに変わると「三国志は読んだかな」と彼女が言った。
その彼女を僕はじっと見た。
沈黙。
彼女のアバターがちょっとだけ首を傾げる。
「どうかした?」
「友達と、アバターの中身について話したんだよ、さっき」
「それってどういう話?」
僕はかいつまんで、俊範が話していたことを彼女に伝えた。彼女は時折、表情を変えながら、僕が話し終わるまで黙っていた。と言ってもほんの数分だ。
「司書の人は本当に入れ替わっていたんでしょう?」
彼女が真っ先に確認したのはそのことだった。
「そう、入れ替わっていた。でも司書は生徒とは違う。大人だし、学校を運営する側だ」
「生徒が入れ替わることは問題がある、っていう意見ね。成績の順位とか、そういうものくらいしか影響がありそうとは思えないけど」
「そうだけど、騙しているのは間違っている」
「誰を騙している?」
彼女の問いかけに、僕は少し考えた。アバターの操作を忘れていたけど、気にすることはない。
気にすることはない? なぜ、そう思ったのかは、すぐにはわからない。
言葉が先に出る。
「みんなを、と言いたいところだけど、僕自身が騙されたくない、と思う」
「でもあなたに対する悪意はないでしょう? それに、実際に対面しても騙す人はいる。騙して平気な人もいるでしょうね」
「そういう人のそばに、僕は近づかない」
「じゃあ、この学校でも放っておけばいいことになるわね」
まったく、その通りだ。
僕は間違っていると思っているけど、その間違いは僕とは無関係だ。無関係なら、関わらない方が利口だ。
「それにしても不思議なものね」
彼女のアバターがテーブルに頬杖をついた。なかなか見ないアバターの姿勢だ。
「私たちの中身が自由に入れ替わっちゃうとしたら、私たちが日々、形成している人間関係は何を基本としているのかは、興味深いことだわ。相手の名前や、アバターが同じでも別人なら、新しい関係のはずなのに、偽装されると関係性が二重になる。二重になると、問題かもね」
「そういうのは昔からあったはずだ」
僕がそう指摘すると、彼女がかすかに顎を引く。
「本名の他に、ペンネームやラジオネーム、芸名、アカウント名、もっと素朴に言えばあだ名とか、一人の人間にいくつも名前があるのは事実ね。でも体は一つだった」
「正確には、公の場での、肉体は、ということだけど」
「公的な書類にペンネームを書く人はいない、ってことね。でもあなたは今、肉体は、と強調したけど、メディアで目にする人は、名前も肉体も明かしているけど、全てを明かしているわけではないわ。メディアの中と、外がある」
「プライベート、ってことか。つまりそこでは、一人の人間が二つ以上に分裂しているってこと? そこまでいったら、どんな人でも、職場と家庭で人格が変わるんじゃない? それこそ別人みたいに」
そうでしょうね、と彼女が柔らかい笑みに変わる。
「例えば、これはリアルの現実でありそうだけど、クラスの人気者が、家庭では大人しい、ということがあるとして、では学校でその人気者を憧れの目で見ているクラスメイトが、家庭での様子を知った時、どう思うものかしら。私だったら、特に何も思わず、二つの面がある、で済ますけど」
「僕はあまり興味ない。でも、そういう二面性と、アバターの中身の入れ替わりは少し違う。個人がそっくりそのまま、別の個人になっているんだから」
「難解ね。では個人とは何? アバターではなく、中身だとして、でも私たちはアバターの向こうを見ることはできない。そこできみの友だちの、喋り方、っていうのが出てくるのかしら」
かもね、と僕は応じた。
「話す内容には、その人の個性、個人性のようなものが現れるから、そこに個人というものが現れるはずだよ」
「でも技術的には会話を人工知能に学習させれば、会話上での個性はいかようにも演出できる」
「話し方が変わるわけだしね。別の形で、検証するしかない」
「検証不可能だと思うけどね」
彼女がゆっくりと席を立った。アバターの使い方がうまいのだ。
僕は彼女を見上げる形になる。
「相手は相手、そう割り切るしかないんじゃない? 相手の実在を気にする関係は、現実にはないんだしね」
僕が言葉を返す前に、よく考えなさいと僕の横をすり抜けて彼女が離れていった。
僕は視線でそれを追う。
すると談話室に俊範が入ってくるところだった。彼と彼女がすれ違う。
僕は椅子に座ったまま、俊範を待ち構えた。
「あれ、誰? なかなかいいアバターをしているけど」
俊範の確認に、「知り合いだよ」と答えておいた。
ふーん、というのが俊範の答えで、彼は席に座るとすぐにノートと教科書を開いた。
「お前がまだ残ってて、助かった。ちょっとここを教えてくれよ。現代文。得意だろ?」
こういう、相手のことに深入りしない部分も、俊範にはあるのだ。だから友達でいられるわけだが。
僕は自分の教科書を開いて、俊範からどこを教えて欲しいのか、聞いた。
いつの間にか談話室の窓の向こうは暗くなり、仮想の灯りが灯されていた。
自習をしている生徒は少ないがまだ、何組か残っていた。
みんな、知らない顔だった。
(続く)
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