第2話
◆
僕は図書室でじっと本を読んでいた。
ページをめくるには指でなぞればいい。紙をめくるのと違い、古くからある電子書式リーダーのイメージに近い。
学校の図書室と言いながら、書棚を物色するようなことはできない。席について指で操作パネルの中から好きな本を選ぶのだ。かなりいいデザインの検索システムがあるので、簡単に読みたい本が見つけられる。
席はシステム的には無限なのだけど、僕が知る限り図書室では多くても二十人ほどしか見ない。基本の席数は五十ほどで、ゆとりは十分だ。
僕は古い海外小説を読んでいた。紙で手に入れようと思ってもお金がかかるので、学校の図書室は都合が良かった。いつの間にか書籍の値段が上がっていて、海外小説だと高校生のお小遣いでは厳しい。
「やあ、上村」
背後からの声に顔を向ける。
ゴーグルの中の光景が回転し、背後に立っているアバターが見えた。
少年で、どこか精悍な印象だ。現実の顔に近いアバターが自動生成される仕組みがVR学校たる奈津高校のシステムの基礎の基礎だった。
いつまでも振り返っているのは辛いので、指につけたキャップの人差し指と親指の先を触れ合わせ、方向をリセットする。
「何? 内藤」
「いや、表を通ったら見えたから声をかけただけ」
「つまり用事はないってこと?」
「いや、ちょっと雑談でもしようぜ、っていう誘い。彼女もね」
ちらっと俊範が視線を向けた先を見ると、図書室の入り口にアバターが一体、立っている。女子の制服を着ていて、アバターでもメガネをかけている。髪の毛は短かった。顔は細面である。
「雑談ね、いいよ」
僕は席を立った。図書室の本を借りることもできるけど、その手続きはしなかった。この図書室の便利な機能として、読んだ本にブックマークを自在に挟めるのだ。実際の図書室や図書館と違い、不特定多数の利用者が本を手に取ったりすることはない。変な表現だけど。
俊範と一緒に女子生徒の元へ行き、図書室を出る。すぐに俊範が話し始めた。
「森川がいて助かったよ。このままじゃ俺は成績不振で落第するかも」
「まだ一年生なんだから」
女子生徒、森川雛子が困ったような声で言う。
「まだまだ先は長いよ、内藤くん」
「森川には卒業まで、面倒見てもらおうかな」
おどけている俊範の言葉に、森川は無言。きっと現実では苦笑いか、困惑、というところだろう。
「あまりいい加減なことを言わないほうがいいよ、内藤」
僕の私的にも、俊範は動じたところはない。
「別にいい加減でもないさ。こうして三人揃っているんだ、昔から言うだろう、三人揃えば文殊の知恵、って」
「言葉は知っていても、実際に機能しているところはあまり見ないな」
「言葉っていうのは空虚なものだよな。物理力を持たないからな」
三人で廊下を移動していく。
他の生徒とすれ違う時、彼らの話す声が近づいてきて、通り過ぎると今度は離れる距離に従って小さくなる。
VR学校であるこの学校では、公共というものを取り込んだシステムが導入されていて、その最たるものがアバターの位置関係により、会話の内容が周りに届くことだ。これは教室にいると、そばにいる生徒の声が漏れ聞こえてきたり、離れたところにいる大声の生徒の声も聞こえてくる事態になる。
生徒は声が聞こえる相手を選べないのだ。
逆に、聞きたくない声をミュートすることはできるのだが、それはアバターに付属のアイコンが表示されるため、人間関係において余計な混乱を呼び込む。なので生徒でミュート機能を利用するものはあまりいない。少数の、コミュニケーションを拒絶する生徒くらいだった。
僕と俊範、雛子の三人は廊下を進み、広い空間に出た。
談話室と呼ばれている部屋だ。ここは図書室などよりはるかに広いデザインである。いくつものテーブルが妥当な間隔をあけて設置され、その距離は他のテーブルの声がほとんど聞こえてこない間合いだった。
空いている席を探してテーブルの間を抜けると、どこか現実に近く、どこか現実とは違う、不思議な喧騒が感じ取れる。
無人のテーブルに三人で着く。
「じゃ、先に宿題をやろうか」
俊範のアバターがテーブルを指で叩くと、テキストが出現する。ノートもだ。
雛子も同じようにしてテキストとノートを用意した。
僕は少し迷って指同士を触れ合わせ、電子書籍を出した。
俊範と雛子のアバターが僕を見る。どちらもアバターなので感情がほとんど読み取れない。というのは一瞬のことで、俊範はアバターに笑いの表情を浮かべさせ、雛子が驚きを浮かべさせた。
「自分は勉強は余裕だぜ、っていう意思表示かい?」
俊範がからかってくる横で、雛子もアバターの表情を笑みに変えた。
このアバターの表情による意思疎通はなかなか難しいけど、入学して一ヶ月は過ぎているので慣れてきている。両手の指にはまっている十のキャップを使う操作は、意外に細かな表現を可能にするのだ。
僕も笑みを浮かべさせ、「まあね」とだけ答えて電子書籍を開いた。図書室で読んでいた本ではないけど、僕は普段から二冊か三冊を同時に読む。変な癖だけど、苦ではない。
僕が文章に目を通している間に、俊範と雛子が言葉を交わしながら、英語の課題をこなしていく。
この学校の仕組みは基本的に二つの装置で成り立っている。
一つが目元を追うゴーグルで、これでVR空間を覗く。もう一つが指の先にはめるキャップで、キャップ同士を触れ合わせたり、キャップでゴーグルに触れたりすることで、様々な操作をする。キャップがゴーグルのカメラの範囲だと、VR空間に出現もする。
声はゴーグルに内蔵のマイクが読み取り、ゴーグルに付属の骨伝導イヤホンが音声を出力する仕組みだ。
入学してすぐは目がすぐに疲れてしまい、何度かゴーグルを外して目薬をさしたものだけど、今はその回数も減ってきた。
宿題の提出はこの学校でも毎日のように課されていて、それは手書きが求められるのが大半だ。現実空間でタブレットに書き込むこともあるが、今、俊範がやっているようにVR空間でもできる。オプションのペンを認識させれば、ゴーグルが見せる仮想空間に文字を書き込めるのだ。
周囲のほどほどに抑制された喧騒と静寂の間で、僕の読書は捗った。
「なあ、上村、あれはウケたよな」
いきなり話題を振られて、僕は電子書籍を閉じた。うつ向けていた顔を上げ、俊範を見る。雛子も俊範の方を見ていた。
「あれ、って?」
僕の言葉に雛子がクスクスと笑う。
俊範も笑っているようだ。アバターの表情は変わらなくても声の震えでそれがわかる。
「替え玉だよ。例の」
ああ、と僕は答えて、面白かったね、と付け加えた。
この日の朝、ホームルームで出席確認があり、そこで珍しいことがあったのだ。
クラスメイトの一人が替え玉を立ててホームルームに出席させたのだ。個人認証をパスしてログインした後、ゴーグルとキャップを渡したらしい。
たまたま担任の教師がその生徒に質問することがあり、返事をしなくてはいけないのだが、アバターは同じでも、声が違うと気付いたらしく、結局、その替え玉は露見した。
当の生徒は叱責を受けるだろうけど、僕とはあまり関係もない。
「意外にそうやって別人になっている奴、いるんじゃないかな」
俊範の言葉に、まさか、と僕は答えていた。
すぐに露見する偽装をしても、意味はない。
でも、とも思う。
例えば図書室を利用したいとか、もっとシンプルにVR学校の様子を見たいとか、そういう理由で忍び込む奴はいるかもしれない。別に図書室なんて無数にあるし、VR空間も無限にあるはずだけど、ここは少し特別にも見えるだろう。
誰でも出入り可能な情報世界に作られていながら、選ばれたものだけが覗ける世界。
聖域、なんだろうか。
俊範と雛子はそれからひとしきり笑って、また宿題に戻ったけど、僕は本を読んでいてほとんど無視していた。
そういうところが、僕が普通の学校に馴染めなかった理由なんだろうけど、俊範も雛子も、奇異の目を向けたりはしない。それが俊範や雛子の、何らかの経験の上に成り立つ姿勢なのか、本来的な性質なのかは、僕には知る由もない。
わかっているのは、ここは居心地がいい、それだけだ。
(続く)
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