第49話  どこに

  

「麻ちゃん?」


 返事がない。

 繰り返し名前を呼ぶ。


 返事がない。


 いつもの、陽気な、少し笑いを含んだような温かな声が、いくら待っても、返ってこない。


 僕は、のろのろと立ち上がる。

 部屋中を歩き回りながら、彼女の名前を呼ぶ。

 彼女の気配をさがして、歩き回る。


 寝室にも、洗面所にも、バスルームにも、トイレにも、

 どこにも、いない。

 こんな場所にいるはずもないのに、クローゼットの扉も開ける。

 いない。

 どこにもいない。

 麻ちゃんの気配がない。


「麻ちゃん」

 返事がない。


「麻ちゃん」

 返事がない。


「麻ちゃん……」


 僕は、ベランダにつながる窓を開ける。

 2人でよく月を見上げたベランダ。

 今は、空は厚い雲に覆われ、冷たい風と一緒に、白い雪のかけらが

 部屋に吹き込んでくる。


 麻ちゃん。寒いよ。

 容赦なく冷たい風が僕に向かって吹きつけ、体温を奪う。

 麻ちゃん。

 麻ちゃん。


 心の中でなのか、声に出してなのか、もうわからなくなるくらい、何度も何度も、麻ちゃんを呼ぶ。


「なんでなん? なんで今日なん? 明日でもあさってでも、いいやん。今日は、あかん、て。まだ、僕は、心の準備ができてへんねん。なんでなん。なんでなん。まだ、あかんねん。まだ……」


 力なく、僕はベランダにしゃがみ込む。


「大吾?!」

 ベランダの下の通りから、呼びかける声がした。仕事帰りの丈くんだった。丈くんが、ベランダの僕を見上げている。

「大吾、どないしたん?」

「麻ちゃんが……」

 僕は、やっとの思いで答える。でも、そこから先は言えなかった。

 涙が次から次へとあふれて、前が見えなくなる。

 胸の中からせりあがってきた熱い塊が、のどをふさいで、僕は、声も出せない。

 ただ、涙があふれて、しゃがみ込んだまま、膝を抱える。



「大吾!」

 玄関が開いて、丈くんが飛び込んできた。

 彼は、ベランダから僕を部屋の中に引きずり込み、窓を閉めた。


「どないしたんや?」

 僕を、こたつに入れて、自分も隣に座った丈君が言う。

「こんなに冷えて……大丈夫か」

 僕を抱きかかえるようにして、丈くんが、僕の腕や背中をさする。

「どうした? 何があった?」

 丈くんの声と温もりに、僕ののど元の熱い塊が、溶け始める。

 僕は、途切れ途切れに言う。

「丈くん。麻ちゃんが……おれへんねん。どこにも、……どこにも、おれへんねん。

……何べん呼んでも、返事が、ないねん」

 言葉の代わりに、丈くんの手が僕の腕をさする。温かい。

「何べん呼んでも、あかんねん」

「うん」

「いっぱい呼んだけど、返事がないねん。……もう、どこにも、麻ちゃん、……おれへんねん……」


 僕の肩を抱える丈くんの腕に、力がこもる。

 そのまま、僕は、丈くんの肩にもたれたまま、涙を流し続けた。

(大ちゃん、目が腫れるから、そんなに泣いちゃだめだよ)

 麻ちゃんの声が頭に浮かんで、また、余計に泣いてしまう。


 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 その間、ずっと隣にいてくれた丈くんのお腹が、ぐぐっと鳴いた。

「あ」

「あ、ごめん」

 2人同時に言って、思わず吹き出す。

「こっちこそ、ごめん。丈くん、仕事帰りで、ご飯もまだやったのに、ごめんな。……でも、ありがとう。――そばにいてくれて」

「いや、おるだけで、なんも、ちゃんと言われへんで、ごめんな」

 ううん。僕は首を振る。

 丈くんの温かさが、心に沁みる。

 僕は、立ち上がって、丈くんに言う。

「丈くん、チキンとか、ピザとか、サラダとかあるけど、それでご飯にする?」

「お。いいね」

 丈くんも、優しい笑顔になる。

「ビールもあるで」

「サイコー」


 そのとき、ひかえめに、ドアをたたく音がして、扉を開けると、和也だった。

 真夜中だったけれど、バイトが終わってすぐ、かけつけてくれたのだという。どうやら、丈くんが、僕の気づかないうちに、メールをしてくれていたようだ。

 僕らは、テーブルに、ささっとつまみになるものをならべる。丈くんには、レンジでご飯を温める。和也が、そのご飯を昆布や、鮭フレークや、鰹節に醤油をかけたりしたものを具にして、手早くおにぎりを作る。あまりに美味しそうなので、作った和也本人も僕も、思わず、丈くんの頬張るおにぎりに目が行く。

「え? こ、これは、おれのやで」

「まだ、ご飯ある?」

 和也が僕にきく。

「あるある。冷凍にたっぷり。すぐ温めるわ」

 ありったけのご飯をレンジで解凍して、それを和也が、次々とおにぎりにする。お皿に並んだおにぎりを前に、和也がにっこり笑う。

「さあ、めしあがれ!」

 そして、力強く笑いながら、僕に言う。

「とにかく、つらいときは、食べる!しっかりがっつり食べて、元気出す。まずは、食べやんと元気でえへんからな」

「うん」

 一足先に、おにぎりをほおばっていた丈くんが言う。

「めっちゃうまい。……ピザとかも、好きやけどさ、でも、なんでやろ。おにぎりって、圧倒的に、いつ食べても旨いよな。元気出る気がするわ」

「ほんまやな。おにぎりって食べたら元気出る気がするよな。それとな、握るときの、この力加減も大事やねん。しっかりした形と、食べたらほろっとほどける感じとか」

 和也が、力一杯、解説する。

「うんうん。確かに、絶妙な感じやな」丈くんも言う。

 和也が、僕に向かって言った。

「大吾。しっかり、食べてや。それで、元気出すねんで」

 僕は、うなずく。

 いつのまにか、涙は止まっていた。

 心の中を熱い塊が駆け巡っているから、いつ吹き出すかはわからないけれど、でも、少なくとも今は、大丈夫だ。丈くんと和也の笑顔と温もりがありがたい。


 僕は、ぽつりぽつりと話す。

「ありがとう。……僕な、もう、十分に覚悟はできてたつもりやってん。いつか、その日が来ても大丈夫なように、心の準備、してたつもりやった。でも、あかんかったわ。何にも、できてへんかった。

 急に、麻ちゃんの返事が返ってけえへんようになったとき、何べん呼んでも、返事がないって、焦って、うろたえて、泣いて、ぐだぐだで……。丈くんが、きづいて部屋に戻してくれてへんかったら、ずっとあのままベランダで、凍えながらしゃがみ込んでたかもしれへん。

 和也も、バイト終わって疲れてるのに、かけつけてくれて、ありがとうな。2人とも、ほんまにありがとう。仕事終わって帰ってきて、めっちゃ疲れてるのに。ほんま、ごめんな。……でも、ありがとう」

 話しながら、また泣いてしまいそうだった。

 でも、何とか堪える。涙の代わりに、笑顔を見せよう。

 

 丈くんと和也は、静かに笑った。

「言うたやろ。応援するって」

「話聞くしかできへんでも、そばにおって、話聞くって」

 和也と丈くんが、言う。

「ほんまありがとう!」

 僕は、ローテーブルの向かいに座る2人のそばに行き、2人まとめて、ぎゅうっと抱え込む。

「あいしてるで」

「くるしい、はなせはなせ」

「ちょちょ、まじで、くるしい」

 わめく丈くんと和也におかまいなしに、僕は、2人を抱きしめ、その確かな温もりに涙ぐむ。



 予定より一晩早く、語り明かした僕たちは、早朝、

「おれ、今日まだ、仕事あるねんなあ……」と

 ため息をつく丈くんを、和也と僕で見送りながら、

「でも、今夜は、ごちそう作って待ってるから、がんばってな」

「なんでも好きなもん作ったるし。何がええ?」

「え~と、え~と。……あかん。チキンとビールしか浮かばへんわ。あ、でも、おにぎり。いろんな具で、小さいのいっぱい」

「了解!」


 丈くんは、一旦着替えるために、隣の自分の部屋に帰っていく。和也は、

「おれも、いったん帰るわな。ケーキ作ったら、また、戻ってくるから、そしたら、料理一緒に作ろな」

 そう言って笑った。

「うん。ありがとう」

 僕も、精一杯の笑顔で答える。



 帰っていく2人を見送る。

 心は、不思議に、静かで穏やかだ。あんなに泣いたことが嘘のように。

 でも、僕は、ずっと感じていた。麻ちゃんの気配が、声とともに、消えてしまったこと。もう、この世のどこにも、彼女が、いないことを。


(麻ちゃん。僕は、勘違いしてたよ。いつか離れる日が来ても、自分は、ちゃんと覚悟ができているなんて。僕には、そんなもん、一生かかったって、できへんことやったのに。心の準備なんて、そんなもん、できるわけもなかったのに。)


 麻ちゃん。麻ちゃん。

 返事の返ってこない空間に向かって、呼びかける。


 麻ちゃん。麻ちゃん。


(今、どこにおるん?)


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