第46話  後悔


 幸い、5分ほど歩いた後で、僕は、何とかタクシーに乗ることができた。

 足首の痛みも肩や背中の痛みも、ますますひどくなってきていたから、もうそろそろ限界だと思ったところだった。

 しかも、雪道でこれ以上転ぶわけにもいかないので、慎重に歩くだけでも、なんだかクタクタだ。当然ながら、パン屋さんに寄ることもスーパーに寄ることもできず、まっしぐらに自分の部屋へ帰ることになった。


「ただいま……」

 足を引きずりながら部屋に入った僕に、麻ちゃんが驚いて、声を上げる。

「どうしたん? 大ちゃん?」

「滑って転んだ」

「え?」

「で、今さっきまで病院で診てもらってた」

「ケガ? どこケガしたの?」

 麻ちゃんの声があわてている。

「右足首と肩と背中。骨は大丈夫やけど、めっちゃ勢いよくぶつけたから、けっこう痛い……」

「大ちゃん……」

 麻ちゃんの声が、心配そうになる。


 僕は、気持ちが弱ってるときや疲れているとき、ついつい、麻ちゃんに甘えてしまう。麻ちゃんの不安そうな気配が伝わってきたので、僕はあわてて、笑ってみせる。そして、ちょっと可愛く言ってみる。

「でもな。僕、今日、ちょっと頑張ったから、麻ちゃん、褒めて」

 痛さと疲れで、何でもないふりが難しかったので、この際、甘えん坊路線でいくことにしたのだ。麻ちゃんは、しっかりそれにのってくれて、

「うんうん。何があったの? 麻ちゃんに言ってごらん」

 ちょっぴりお姉さんぶって言う。


 そこで、僕は、リビングのクッションにもたれて座り、今日起きた出来事を、麻ちゃんに話す。


「そうか……。がんばったね。いくらでも褒めてあげる」

「そやろ。僕えらかったよな」

「うん。えらかった!助けたこともえらかったけど、それ以上に、ちゃんと無事だったことが、何よりえらかったね」

「まあ、ちょっとけがしたけどな」

「大ちゃん……」

 ふっと声が途切れたと思ったら、麻ちゃんは泣いていた。

「無事でよかった……。ほんとによかった。その子も大ちゃんも……」

 麻ちゃんの涙声に、僕は焦る。

「麻ちゃん……ごめん。泣かんといてや。無事やってんから」

「うんうん。そうだね。でも、大ちゃんにもしものことがあったら、って

考えただけで、こわくて不安で……」

「ごめん。心配かけて……」

「……大ちゃん。ごめんなんて言わなくていいから、それより、絶対、約束して」

「うん?」

「大ちゃん、絶対、長生きして」

「麻ちゃん……」

「ちょっとやそっとで、死んじゃダメ」

「ちょっとやそっと、って」

 苦笑いする僕に、麻ちゃんが言う。

「長生きして、元気な若者から、いつか素敵なおじさんになって、そして、もっとずっと先まで生きて、可愛いおじいちゃんになって、……ずうっと、生きていて」


「う~ん。その約束は、ちょっと難しいな……。自分でどうにかできるもんとちゃうしなぁ……」

 僕は、そう答えたけど。



 正直なところ、僕は、時々、麻ちゃんのいる場所に行けるのなら、『そのとき』が早く訪れてもいいかもしれない。

 そう思うときがある。

 自分からそんな行動を、わざわざとったりはしない。けど、それでも、ある日、『そのとき』が訪れたなら、僕は避けることも拒むこともしないだろう。そんな気さえしている。


「だめだよ。大ちゃん」

 黙っている僕に、麻ちゃんが言った。麻ちゃんは、何がだめなのかは言わなかったけど、彼女は僕の心の中を、すっかりお見通しのようだった。


「ごめんな。麻ちゃん。今日の僕は、ちょっとダメージ大きかったみたい」

「そうみたいだね。着替えして早く寝たほうがいいかも。……あ、でもご飯はちゃんと食べないと。痛み止めのお薬とか出てるでしょう?」

「うん」

 僕は、冷凍のご飯を温めて、カップスープと一緒に食べる。そして、野菜ジュースを飲む。薬を飲んで、シャワーを浴びたあと、痛む場所に湿布を貼りまくって、すぐに、布団に横になった。


「大ちゃん」

「ん?」

「大ちゃん」

「うん」

「無事に帰ってきてくれてありがとう」

「麻ちゃん。……正直なこと言うてええかな?」

「なに?」

「僕な、こうして、2人で、一緒に話せるだけでもしあわせやけど。でも、時々思うねん。麻ちゃんのいてるところにいけたら、僕は、」

 僕は、最後まで言うことができなかった。

 麻ちゃんが、びっくりするほど、めちゃくちゃ強い口調で、

「ばか!! 大ちゃんの大ばか!!」

 僕に怒ったからだ。

「そんなこと言う大ちゃんは、・・・」


 かすかに、『キライ』と、聞こえた気がした。

 そして、そのまま、麻ちゃんは黙ってしまった。

 僕の胸が、きしむように痛んだ。

「麻ちゃん」

「……」

「麻ちゃん」

「……」

 呼びかけても、返事をしてくれない。

 一緒に暮らし始めて、初めてのことだった。

 僕は、激しく後悔した。

 僕と麻ちゃんがつながる手段は、お互いの声、言葉だけだ。抱きしめ合うことも、見つめ合うこともできない僕たちには、会話だけがすべてだ。

 だからこそ、これまで、僕たちは、大きなケンカもしたことがなかったし、お互いをいたわる言葉を大切にしてきた。それなのに、僕は、つい弱音を吐いてしまった。

 一番言ってはいけない相手に、一番言ってはいけない言葉を、言ってしまった。


「麻ちゃん。ごめん」

「……」

「ごめん。麻ちゃん。今日は僕、少し弱気になってた。あちこち痛くて疲れてて。やから……」

「……大ちゃん」

 やっと、彼女の声が聞こえた。小さな声だ。

「うん」

「大ちゃん。明日は、もう少し、痛みが引いてるといいね。それで、……元気になってるといいね」

「うん」

「大ちゃん。おやすみなさい」

 静かな声で、麻ちゃんが言った。

「おやすみ。麻ちゃん」

 僕の言った『おやすみ』が、なんだか宙に浮いたような気がした。


 いつもより、静かな部屋の中で、僕は、麻ちゃんの押し殺したような息遣いをかすかに感じながら、目をつぶる。


 彼女を悲しませることも、

 追いつめることも、

 絶対にしたくなかった。

 ……それなのに。

 僕は、自分が情けなくてしかたなかった。





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