第45話 雪の落ち始めの場所
―――そして。
ここは病院だ。
救急車で運ばれた病院で、僕は手当てを受けている。僕の横には、親子連れが立っている。
あまりに心配そうな顔でそばにいるので、病院のスタッフも、はじめは、彼らを僕の家族だと思ったらしい。そのせいか、診察が終わると、ドクターは、彼女に向かって言った。
「奥さん、大丈夫ですよ。右足首の捻挫と……ええ、骨折じゃないです。それと、肩と背中の打撲ですね。頭は打ってなくてよかったですね。ただ、打撲は後から痛みがひどくなるかもしれないので、湿布だしときますね。今日は、お風呂はやめて、シャワー程度にしておいてください」
そう説明された男の子の母親は、ホッとしながらも、ちょっと困惑している。
(いや、僕、僕に言うて。僕、今は大丈夫やから)
よっぽど僕がボーっとしているように見えたのか。
少し時を戻そう。
僕は、男の子に駆け寄って、夢中で腕の中に抱きかかえ、車道に倒れ込む寸前のところで、彼を止めることができた。ところが、雪道に滑った僕は、彼を抱いたまま勢いよく転倒して、背中と肩を思いきり地面に強打した。
幸い、頭は打たなかったけれど、その衝撃で、一瞬息が詰まって、すぐには起き上がれなかった。
腕の中では男の子が、大きな声で泣いている。
(ケガは? ケガしてない?)
聞きたいけど、すぐには声が出なくて、僕はただ荒い息をしていた。
「大丈夫ですか?!」
駆け寄った母親が、僕から男の子を抱きとり、僕に声をかけた。僕はうなずく。
母親が確かめたところ、どうやら、男の子にケガはなさそうだ。泣いているのは、びっくりしただけのようで、ホッとする。
周りに、人が集まってきた。
(うわ。恥ずかしい。大丈夫です。大丈夫です)
心の中で言う。
僕は、道に足を投げ出して座ったままでいたので、次第に服にも冷たい雪と泥水がしみてくる。
(あかん。パンツまでしみてきた)
あわてて立ち上がろうとしたら、右足首に痛みが走る。立てなくはなさそうだけれど、自信はない。
あきらめた僕がその場に座っていると、心配そうに、声をかけてくれる人たちもいて、僕は、荒い息をしながら、頭を下げた。
そのうちの誰かが、救急車を呼んでくれていたらしい。救急車が到着して、僕と親子連れを病院まで連れて行ってくれた。
そして、今に至る、というわけだ。
病院の会計もすませ、湿布薬も病院のすぐ隣の薬局でもらった。
男の子のお母さんは、自分が支払いますと言って引かず、しかたなく、僕はお願いすることにした。
僕が、病院を出るまでの間ずっと、彼女はひたすら、僕に感謝とお詫びの言葉を繰り返し続けていた。
「大丈夫ですよ。無事でよかったですね」
何度僕がそう言っても、今にも泣きそうな顔をしていた。男の子は、いまひとつ、何が何だかわからないけど、大変なことが起きるところだった、という気配だけは感じ取っているようだ。ずっと神妙な顔をしている。
話をしてわかったのは、その親子連れは、入院中の家族に着替えを届けに行くところで、雪でタクシーもつかまらず、やむなく歩いているところだったらしい。
そして、その入院先が、まさにこの病院だというのだ。不思議な偶然に僕が驚いていると、
「思いがけない形で、目的地に来てしまいました」
お母さんは、少しだけ笑ってそう言った。
「ちょうどよかったですね。じゃあ、僕、帰ります。ご家族の方、早くお元気になられるといいですね。お大事にしてあげてくださいね」
挨拶を交わして、親子連れに見送られながら、僕は、病院を出た。
外の雪は止んでいる。
1人になると、急に足首と肩の痛みが、強くなる。
早く帰るどころか、すっかり遅くなってしまった。
(かっこよく、ささっと助けて、立ち去れたらよかったんやけどな。ああ、早く帰るって言うたのに、麻ちゃん、心配してるやろな)
僕は、やきもきしながら、雪道をおそるおそる歩く。タクシーはすべて、出払っているようでつかまらない。なんとか歩ける距離なので、あきらめて僕は歩く。
男の子のお母さんが病院の売店で買ってくれたスウェットの上下を着て、背中にはいつものリュック、手には着ていたコートとズボンの入った袋を下げて、歩く。
コートがびしょぬれなので、コートの代わりに、着ていた服の上に、スウェットの上を着こんでいる。なんだか、寝巻のまま外を歩いているような格好に見えなくもない。
(まあ、ええか。あの子も僕も、命は無事やったし)
足首はかなり痛い。
肩もかなりずきずきする。
背中は……。
あちこち痛い。
でも、僕は、その痛みの分、まちがいなく、
……生きている。
麻ちゃん。
どんなにか怖かっただろうね。
なんにもわからないまま、ひとりぼっちで、ちがう世界に放り込まれて。
目の前には、それまでと変わらない世界が、そのままあるのに。
自分だけが、そこにいない。
また、雪が降り始めた。
僕は、空から舞い落ちる、小さな花びらのような雪を見上げる。
雪の落ち始めの場所はどのあたりだろう。
どの瞬間に雪に変わって、舞い落ちてくるのか。
次から次へと雪に生まれ変わって、地上にやってくる水の精を
手のひらで受け止めながら、僕は麻ちゃんを想う。
僕は、麻ちゃんのために何ができるのだろう。
このままずっと、今のままで、彼女がこの世にいることは、
果たして彼女にとって幸せと言えるのか?
彼女が、新しい姿に生まれ変わって地上に降りてくる。
そんなイメージが、僕の頭の中に、一瞬、浮かんだ。
麻ちゃん。
僕は、麻ちゃんのために何ができるのだろう。
雪は、僕の肩に柔らかく舞い降りては、静かに積もってゆく。
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