第44話  雪道

 

  朝から雪が降っている。カーテンを開けて、僕は言った。

「麻ちゃん、雪、降ってるで」

「ほんとだね」

「どうりで、なんか静かやと思った」

「積もるかな? あまり降ったら、道が滑って危ないからなあ」

「そうだね」


 麻ちゃんが、ふふっと思い出し笑いをする。

「何笑ってるん?」

「あのね。中3のとき、高校受験の朝、前の晩から降った雪が、けっこう積もってて。私、駅に行こうと自転車こいでて。晴れてる日と同じくらいのスピードで」

「うん」

「そしたらね、道端に立ってたおじさんが、『危ないからスピード出したら、だめだよ~』って声かけてきて。あ、それもそうやな。今日は滑りそうだし、ゆっくりいかないとな、て思って、あわててブレーキかけたの」

「え! それって、かえって危ないやん」

「そうなのそうなの。見事に滑って、自転車ごとひっくり返って」

「ケガはなかったん?」

「うん、厚着してたし、そんなに痛くなかった。でもね、そのあとは、慎重にゆっくり走ろうって思って、自転車起こして、しばらく押して歩いて。そしたら、がしゃーん、ってまた後ろで誰かひっくり返ってる音がして。振り向いたら、またそのおじさんのすぐ前で転んでるの。どうやら、そのおじさんに声かけられると、みんな、そこで、あわててブレーキかけてしまってひっくり返ってたみたい」

「ん~そのおじさん、親切で言ってたのかな? ほんとは、わざと声かけて、転ぶのを楽しんでたのかな?」

「微妙なところよね。まあ、でも雪の日や雨の日は、気をつけようって、そのときから思ったから、いい教訓にはなってるかな。ところで、大ちゃん、今日はどんな予定?」

「ん~。今日は、一つだけ専攻の講義があるけど、あとは、ちょっとだけ図書館で調べ物をして帰ってくるよ。そんなに遅ならへんと思うよ」

「うん。わかった。雪道、気をつけてね」

「うん」

「大ちゃん」

「うん?」

「お願いが1個」

「なんでもどうぞ」

「ウインクしてみて」

「え? 何、急に……」

「へへ。ちょっと見てみたくなったの。だめ?」

「どっち側?」

「じゃあ、まず、右」

 照れくさいけど、僕は、慣れない、渾身のウインクを披露する。

「わああ、素敵。じゃあ、次は、左」

「え。左も?」

 再び、試みる。右ほどはうまくはいかないけど、なんとかできた。

「すごくいい。大ちゃん、実は、ウインク上手だったんだね。悩殺されちゃった……すっごく素敵。くらくら……」

 麻ちゃんが、可愛くふざけている。

「何言うてんの。ウインクなんかせんでも、大ちゃんは素敵やろ?」

 僕も、ちょっと厚かましくふざけ返して、もう一つおまけの右ウインクをする。

「きゃあ」

 麻ちゃんが、声をあげて笑う。

「あ~恥ずかし。しょうもないことせんと、ささっと行って、ささっと帰ってくるわ。じゃ、行ってくるね、麻ちゃん」


 麻ちゃんが、たくさん泣いたあの日以来、僕らは、できるだけたくさん、お互いの名前を呼び合うようになった。別にそうしようと話し合ってきめたわけじゃない。

 自分の声を聞いてくれて嬉しかった。自分の名前を呼んでくれる人がいてしあわせ。麻ちゃんのその言葉が、僕の心に強く残っていて、だから、僕は、彼女の名前を、一日に何度も呼ぶ。彼女も、一日に何度も、僕の名前を呼ぶ。

 そうやって、お互いの名を呼び合えることの幸せを、僕らはそっとかみしめる。



 今日受講する予定の講義は、午前中の早いうちに終わったので、僕は、図書館で、いくつか資料を借りて、大学を出た。

 適当に、パンでも買って帰って、家でランチにするのもいい。できるだけ早く帰って、ゆっくり温かい飲み物でもいれて、麻ちゃんとおしゃべりしよう。

 萌みたいに、麻ちゃんの分もちゃんと用意しよう。ついこの間、僕は、麻ちゃん用にちょっとおしゃれなマグカップを買ったのだ。クリスマスプレゼントにしようと思って、まだ箱に入れたままだ。なんなら、クリスマスまで待たずに、今日開けてみてもいい。


 そんなことを考えながら、通りを歩いていた。

 歩道に積もった雪は、溶けて、所々シャーベット状になっている。車道を走る車も、みんなスピードを落として徐行している。

 今朝の、麻ちゃんの話を思い出して、ふっと笑ってしまったとき、僕は、数メートル先を歩く親子連れが、目に入った。

 ベビーカーを押す母親と、その横をとことこ歩く小さな男の子。すぐ横の車道を1台の車が、結構なスピードで走っていく。

 そして、その親子のすぐ目の前で、左折してわき道に入った。そのスピードに驚いたのか、その瞬間、男の子の手から、何かが落ちてはずみ、そのまま車道に転がり落ちた。男の子は、慌ててそれを拾おうとして、車道に向かっていく。その小さな体が、雪に足を取られて、車道に向かって傾いていく。

 そこにまたもう一台、車が走ってくる。

「危ない!」

 叫んだのが、自分かどうかもよくわからない。けれど、次の瞬間、僕は、車道に向かおうとして転びかけたその子に、無我夢中で駆け寄っていた。

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