第42話 大人に
この前のタウン誌の取材は、大急ぎで目を冷やしたのが、何とか功を奏して、普通の顔で行くことができた。やれやれ、だ。
たくさん泣いて、少し気持ちが落ち着いたのか、あの日以来、麻ちゃんの雰囲気は、以前よりも穏やかで柔らかい。
遊びに来た萌と2人で、ドラマの話や本の話や、語学の話で、盛り上がっている。
僕は……と言えば、今日は、和也の修行先の店に、丈くんと2人で、晩ご飯を食べに行くことになっている。
「いいね~。また、どんなお料理でたか、教えてね」萌が言う。
「了解。で、晩ご飯のあと、和也もバイト終わり次第合流して、飲みに行く予定やねん。ちょっと遅くなるかもしれへんで」
「ぜんぜんOKやで~。今日は、麻さんといっぱいおしゃべりしたくて、泊りがけで来たんやもん。女同士で思いっきりしゃべりあかすから、大ちゃん、気にせんと、ゆ~っくり、いってらっしゃい」
萌はあっさりしたものだ。麻ちゃんも、
「大ちゃん、ごゆっくり~」と笑っている。
萌は、ここに来る前に、おいしいパン屋さんで、大好きなパンを山ほど買ってきたので、それを食べながら、麻ちゃんとおしゃべりするらしい。ローテーブルには、香りのいいコーヒーの入ったマグカップが、2つのっている。1つは、麻ちゃんのだ。
飲めなくても、なんとなく、2人分がテーブルにあると、なごむ気がするでしょう? 萌は言う。
たしかに。
僕は、実は、あまりそんなことをしたことがなかった。今度、麻ちゃんとお酒を飲みたい気分のときに、そうしてみるのもいいかもしれない。
「じゃあ、いってくるで」
「いってらっしゃ~い」「いってらっしゃい」
2人分の声に送られて、僕は部屋を出る。
丈くんとは、店の前で落ち合う約束だ。
着いてすぐ、丈くんもやって来た。
「お、大吾。ごめん。待った?」
「いや、僕もちょうど今来たとこ」
「なんか、入り口から雰囲気良いな」丈くんが、言う。
きれいに掃除された気持ちのいい入り口に、きりっとした濃紺の暖簾がかかっている。気の張るような高級な店ではないけれど、どこか凛とした心意気を感じさせる店の佇まいに、僕らは、期待でワクワクする。
引き戸をからりと開けると、
「いらっしゃいませ」
大きすぎず小さすぎず、絶妙なボリュームの声が響いた。爽やかな笑顔に迎えられて、テーブルに着く。
「いらっしゃいませ。お飲み物はどうされますか」
おしぼりとメニューを運んできた和也が言う。晩ご飯のあとで、3人で飲みに行く予定なので、ここは、
「ウーロン茶2つで。メニューは、おすすめミニコースで」
「かしこまりました」
和也が、ニコッと笑う。
これは、予め和也からすすめられていたメニューだ。一通りこの店の美味しいものが少しずついろいろ味わえて、小さな1人用の鍋もついて、めちゃくちゃ満足できるという。
「うっま」
「これ、めっちゃ美味しい」
「なんか、おかわりしたいくらいやな」
一品一品を、和也は温かな笑顔で、説明してくれる。この前作ってくれた、レンコン饅頭のあんかけも出てきた。
1人用の鍋は、紙でできている。中には、白身魚と白菜とキノコ、豆腐とだしが入っている。丸い固形燃料で温める。
「紙やのになんで燃えへんの?」「ふしぎやな」
「それにしても、このだし、めっちゃおいしいな」
「うん。マジで、タッパーに入れて持って帰りたいな」
さすがに、そんなことはできないので、僕らは、鍋の具が、すべてなくなっても、だしを全部飲みつくした。
「美味しすぎて、だし、全部飲んでしもた」
「うん。おれもや」
僕らが、そう話しているのを聞いて、店のご主人が、
「ありがとうございます」と爽やかに笑った。
僕らの両隣のテーブルのお客さんたちも、ほんまに美味しいねえ、とほっこり幸せそうな顔をしている。
テーブルもカウンター席も、いつの間にか、程よく埋まっている。
ふと気づくと、静かに店内に流れているのは、少し和風にアレンジされたビートルズの曲だ。
ほんとなら、麻ちゃんも連れてきてあげたい。きっと気にいるはずだ。
僕は、心の中で、そんなことを考える。
美味しいものを食べると、麻ちゃんに食べさせてあげたいと思うし、きれいな景色を見ると、麻ちゃんにも見せてあげたいと思う。
一緒にでかけられたらいいのに。
ふっと、さみしさが心をよぎる。
丈くんは、僕の表情に気がついたのだろう。
「麻さんにも、食べさせてあげられたらええのにな」
ぽつりと、そう言った。
「うん。そやな」
そして、僕は、はっとする。
そういえば、萌には、先週電話で話したとき、今日の予定を話していた。
今日、萌が来たのは、きっと、麻ちゃんと僕、両方のためだ。
僕が出かけやすいように。
麻ちゃんが、さみしくないように。
萌の心遣いが嬉しかった。
丈くんも和也も、麻ちゃんの存在を知ってからも何度か、一緒に僕の部屋で、麻ちゃんとおしゃべりして過ごしている。2人とも、だいぶ馴染んできて、壁ではなく、適当に、自分の好きな方向を向いて、しゃべるようにもなってきている。
最後のデザートは、ほうじ茶のプリンだ。クコの実がのっている。デザートに、シャーベットやアイスが出てくるお店も多いけど、
「お腹に優しいように、あまり冷たすぎるデザートはだせへんねん」
前に、和也は言っていた。
隣のテーブルの中年女性の二人連れが、僕らと同じようにデザートを食べながら、
「アイスとかシャーベットより、プリンくらいがちょうどいいね」
「ほんまやねえ。冷たすぎるのは、お腹にこたえるからねえ」
と話している。
まさに、和也が言っていた通りで、丈くんも僕も、なるほど、とうなずく。
僕らの胃袋なら、アイスだろうが、パフェだろうが、全然平気だ。でも、きっと店主は、幅広い年齢層の客のことを考えて、このメニューを組んでいるのだ。
人の心や体をどれだけ気遣えるか。単に、美味しい、というだけでは十分ではないのだ。
これは、どんな仕事にも言えるような気がする。
単に、形だけを整えた仕事ではなく、そこに、何かしらの心遣いや工夫のある仕事をすること。
ふとそう思って、丈くんに話すと、
「あ。おれ、まさに、それで失敗した」
「ん? どんな?」
「いや、合宿のしおりの原稿作るときに、あんまり何も考えやんと、他のページが、縦向きにやのに、おれの作ったページだけ、横向きで。そのページ見るたびに、しおりの向きをいちいち変えなあかんように作ってて。他の先生に言われて、気がついてん。はじめ、どっち向きでも、中身がちゃんと読めたらええやん、くらいに思ってんや。でも、実際、やり直したら、たしかにスムーズに読めるから、その方がええねん。ほんのちょっとのことやけど、あのままやったら、微妙にストレスかかるとこやった。使う人への気遣いが足りてへんかってんな」
「なるほどな……」
「ええ仕事ができるようになりたいな」丈くんが言う。
「うん」
僕らは、まだまだ、いろんなことに気づけていない、ガキだ。年齢だけは、20歳をとっくに超えているけれど。
一体、いくつになったら、僕らはちゃんと大人になれるのだろう。
「……がんばらなあかんな、おれら」
「うん。そやな。ほんまに、がんばらなあかんな」
僕らは、静かに決意する。
(ええ仕事のできる大人になろう)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます