第41話  名前を呼んで


「こんなに泣いたの初めてかもしれない。死んでからも死ぬ前も」


 麻ちゃんが、やっと涙がおさまったのか、少し、力の抜けた声で言う。

「麻ちゃん、ずっと我慢してたんやね」

「うん。あまり急に死んでしまったから、自分でも何をどうとらえたらいいのか、訳が分からなくなってたんだと思う」

「そうやな。しかも誰にも相談できへんかったし」

「うん。ただ、訳も分からずに、『ぽつんと一人、ここにいる』って、けっこう怖いよ。どこへ行けばいいのか、どうすればいいのか、誰も教えてくれないし。周りの世界は、変わらずにそこにあって、ちゃんと見えるのに、自分は、そこには存在していない。

 声を出しても、誰にも返事してもらえない。空っぽのこの部屋の中で、時々くる不動産屋のおじさんに、話しかけてみたけど、何の反応もないし」


 そう言った麻ちゃんの声のトーンが、変わった。

「大ちゃんが、初めて私の声を聞いてくれた人だったんだ。それが、どれほど嬉しかったか……!」

「うん」


「大ちゃん」麻ちゃんが、僕を呼ぶ。

「ん?」

「大ちゃん」

「はい」

「大ちゃん」

「なに?」

「大ちゃん。ありがとう。私ね、今、すごくしあわせだよ。こうやって、呼びかけて、応えてくれる人がいる。思いっきり泣いても、黙ってそばにいてくれる人がいる。すごくすごくしあわせだよ」

「麻ちゃん……」

「そう。そうやって、私の名前を呼んでくれる人がいる。それもめっちゃしあわせ。もう誰にも、呼んでもらえない。1人きりで、ただ、『いる』だけの存在になって、

『いる』ことさえ、気づいてもらえない。そう思ってたから」


「麻ちゃん」僕は、心を込めて呼びかける。

「はい」

「麻ちゃん」

「うん」

「麻ちゃん」

「なあに?」

「麻ちゃん。僕は、ずっとここにおるよ。泣きたくなったら、いつでも、思いきり泣いたらいい。僕も一緒に泣く。笑いたいときは、思いっきり笑ったらいい。一緒に笑おう。2人で、これからもいっぱい話そう。僕が、そばにおるから」

「大ちゃん」

「うん」

「大ちゃん」

「なに? 麻ちゃん」

 麻ちゃんが、少しいたずらっぽく言った。

「なんか、お互い、目がすごいことになってるかも……」

「目?」

「めっちゃ、腫れてる……みたい」

「え? ほんま? ちょっと待って」


 僕は、洗面所に走る。

 鏡の中にいる僕のまぶたは、驚くほど、ぼってりと腫れていた。

 眉毛の位置が上がってるのか?

 それとも、まぶたの重みで

 目の位置が下がったのか?

 なんにせよ、めちゃくちゃ腫れぼったい目で、間延びした顔の僕が、鏡の向こうで、途方に暮れている。


「麻ちゃん。どうしよ。明日、バイトある」

「あ、そうやね。タウン誌の食べ歩き取材のレポーターとか言うてたよね」

「うん。この顔やばい、よな」

 結婚式場のパンフレットの写真以来、僕には、時々、取材レポーターとか、広告のモデルとかの依頼がくる。どうしても、断れないところだけ引き受けている。

 今回のタウン誌は、文章も僕に書かせてくれる、というので、面白そうだと思って、引き受けたのだ。

「冷やそう! とにかく、冷やそう!」麻ちゃんが、言う。

「そ、そやな。貼って冷やすやつ、あったっけ?」

「あるはず。先月、大ちゃんの実家からの宅配便に入ってた。大ちゃん、まだ使ってないから、あるはず!」


 僕は、冷蔵庫を開ける。

「あった!」

「はやくはやく!」

 麻ちゃんに急かされながら、僕は、細く切った冷却シートを両方のまぶたに貼る。

「つめたい……」

「冷たくないと、意味ないでしょ」

「うん。でも、僕、これ苦手やねんな……。冷えすぎて」

「ごめん。大ちゃん。私が、泣かしたから……」

「ほんまや。麻ちゃんにめっちゃ泣かされたわ。え~ん」

 僕は、ふざける。

「もう。大ちゃん! 明日までに、イケメンに戻らないといけないんだから、もう泣いちゃダメよ」

「わかった~泣けへん~」

 僕の声は、自分でもわかるくらい、甘ったれな子どもみたいだ。

 丈くんや和也が、熱い男になった気ぃするって、言うてくれたけど、甘えた(甘えん坊)な男になった、の間違いかもしれへん。


「大ちゃん」

「ん?」

「ありがとね」

「うん」

「大ちゃん」

「うん?」

「大好きだよ」

「僕もやで。麻ちゃん」


 頬が火照ってくる。

(あかん……。冷却シート、ほっぺたにも貼らなあかんかも)



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