第38話 行きたいところ
「全く意味の分からない言葉を100回聞いても、わかるようになんてならない」
「そんなん、苦痛でしかないわ」
麻ちゃんと、萌の声が熱を帯びる。
『シャワーを浴びるように、何度も何度も、その言葉を浴びていれば、いつかわかるようになって、ペラペラになる』
外国語教育に関して、そんな夢物語を本気で信じている人に、時に、出会うことがある。
そういう人は、『帰国子女なら、英語がペラペラなのは当たり前で、留学すれば、それなりに話せるようになるし、海外に行って、その言語に毎日接してさえいれば、簡単に、話せるようになる』
彼らの苦労を知らずに、そんなことを気楽に言う。そして、言うのだ。
文法なんてやらなくても、たくさん聞いてたくさん話せば、外国語はマスターできる。ほら、赤ちゃんはいつの間にか、その言語を話せるようになっているじゃないか、と。
そもそもマスターという言葉を使うこと自体もおかしい。現に自分の母語であっても、100%マスターしたと言える人は存在するのか。
一生かかったって、すべての言葉を知ることはできないように、完璧に一つの言語を使いこなすことなど、不可能だと、僕は思う。
文法がわからずにしゃべれる人なんていない。
麻ちゃんと萌が言う。
麻ちゃんは、中学校で、萌は塾で、英語を教えるという経験がある。麻ちゃんについては、残念ながら過去形だが。
2人は、今の日本の英語教育について、納得のいかないことがたくさんあるらしい。
「文法に偏るのではなく、話すトレーニングも大事なのは確かだけど」
「浴びるほど聞けばわかるようになる、なんてことは、絶対にない」
2人は、言う。
「意味も何も分からない言葉を聞かされ続け、居心地の悪い思いをして、教室に座っている子たちの気持ちを思うと、たまらない」
萌は言う。
麻ちゃんも、同意する。
2人は、語学が好きで、むしろ得意な方で、だからこそ、大学で外国語を専攻した。
「でもさ、全く初めて勉強する言語を、その言語で説明されて、訳わかると思う? 大ちゃん!」
「それは無理やな」
「しかも、宿題の説明もその言語で言われるねん。たまに、英語で言うてくれるときもあるけど、それも訛りが強くてよくわからんくて」
「あ~わかる! 私も同じ経験した! だから必死で聞いて、でも、よくわからないから、授業の終わった後で、みんなで、相談して。
『ねえ、今日の宿題って、なんやったと思う?』
『たぶん、こんな感じ?かな?』
『そんな気がする。じゃあ、そのセンで、宿題してこよか』
『そやな。もし、まちがってても、みんなで、同じことしてきたら、先生も、そんな風に聞こえたかな、って思うやろ』なんてね」
麻ちゃんが笑いながら言う。
「それそれ」
萌も言う。
そして、90分間、訳の分からない言語を浴び続ける苦痛から抜け出すには、結局、自分で、文法書を読んで勉強したり、読んだり書いたりして、さまざまな言葉を頭にインプットするしかなかった、と2人は話す。
「外国語は好きやけど、語学の天才ちゃうから、やっぱり地道にやるしかなかった、ってだけなんかもしれへんけど」
「少なくとも、聞いてるだけで話せるなんて、ありえなかった」
「中学生や高校生が、1時間浴びるほど外国語を聞いたとして、それを理解して定着させるために、+αの勉強をする時間が、どれだけ取れるのかな」
各国の文化や日常の生活様式が、言語に与える影響について、文化圏によって、使われる言葉の違いや、派生のしかたについて、主に、文学作品を通して調査する、というのが、僕の研究テーマだ。
翻訳されている作品でも、原書に当たる必要があるし、どうしても外国語を勉強せざるを得ない。でも、なかなか、道のりは厳しい。
「ドラえもんだっけ。たしか『翻訳こんにゃく』って、なかったっけ」
僕が言うと、
「ああ、そんなのあったような」と萌。
「でも、私は、『暗記パン』がほしかった」と麻ちゃん。
「ああ、あれ、欲しかったな。でも、『どこでもドア』が、一番欲しいな」
僕が言うと、萌が、
「塾でさ、小学生にきいたらね、一番多かったのは、『タケコプター』やったで。
『どこでもドア』が欲しい子よりも、多かったわ」
「どうしてかな」
「自分で、自由に飛べて、いろんなとこ行けるやん、て言うてた。中学生になると、『どこでもドア』派が増えるねんけど」
「へえ~。おもしろいな」
「まあ、うちの塾の子だけやから。全小学生が、どう思ってるのかは、知らんけど」
僕は、心の中で思う。
もし、ここに、『どこでもドア』があるのなら。
今、麻ちゃんが立っている場所に、行きたい。
そして、彼女を連れて、ドアのこちら側に帰ってくるのに。
「私も、『どこでもドア」派だな』
麻ちゃんが、言った。
(麻ちゃんの行きたいところは、どこなん?)
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