第30話 独り占め

 今日の家庭教師のバイトは、謙杜が、僕の部屋に来て、勉強することになっている。築島家に父親の友人知人関係、来客が大勢訪れての宴会が、催されるのだという。うるさくて、勉強にならないから、と謙杜はいう。


 僕にしても、出向かなくていいので、手間が省けてラッキーだ。それに、出かけないということは、麻ちゃんといられる時間が、その分増えるので、正直、嬉しい。

 僕らは、2人で、どこかに出かけるということができない。だから、部屋で2人で過ごす時間が、ふつうの日常生活でもあり、同時に、ときめくデートの時間でもある。


 目を見つめたり、触れたり、抱きしめたりする。そういった、普通ならできることが、僕らにはできないけれど、その分、僕らは、語り合う。一つひとつの言葉に思いを込めて。


「麻ちゃん、今日、謙杜がうちくるねん。家庭教師の日やけど、今日うちですることになってん。ちょっとの間、ごめんな」

「いいよ。前に、来たことある子よね? 転倒事故の一件のとき」

「そうそう」


 転倒事故がきっかけで、体から抜け出た、女子高生の魂が、謙杜の友人、町田駿佑にとり憑いたときに、2人で、うちに来たことがある。

 あの時は、その高校生、水野明日香さんの声が聞こえたのは、麻ちゃんだけで。

 僕は、麻ちゃんが明日香さんから聞きとったことを、ささやいてもらいながら、謙杜たちの相談にのった。

 3人で事故現場に出向いたりして、遺留物を捜したりしたものの、僕たちがほとんど何もしないうちに、その一件は、無事解決した。

 そういえば、そのとき以来かもしれない。



 5時過ぎ。ピンポーン。

 来客の顔が画面に映る。

「はい」

「こんにちは。謙杜です」


 僕は、1階のオートロックの開錠ボタンを押す。しばらくして、エレベーターの音がしたので、僕は、ドアを開けて、顔を出した。

「お。いらっしゃい」

「こんにちは」

 にこやかな笑顔で、謙杜が、駆け寄ってくる。

 玄関に入ると、ぺこりと、頭を下げて、

「こんにちは。おじゃまします」と言った。

 彼は、礼儀正しい。


 リビングのテーブルに、謙杜が、筆記用具や、問題集やノートを並べる。

 僕は、お茶をいれて、彼の前に置いた。

「ケーキ、買うてきたから、あとで、休憩に食べよな」

「やったあ~。ありがとうございます!」


 僕たちが、問題を解いたり、話しているとき、麻ちゃんも、そっと、問題をのぞき込んでいる気配がした。

 でも、物理は苦手らしく、途中で、

「う~ん。むり……」そう言って、黙ってしまった。

 謙杜には、彼女の声は聞こえないと僕らは知っている。なので、安心して、彼女もぽろりと声が出てしまう。


 1時間を過ぎたので、休憩を入れることにして、僕は、冷蔵庫から、ケーキを出す。温かい紅茶を入れて、テーブルに運び、謙杜と僕の前に置く。


「ありがとうございます。……すみません」

 謙杜が、ニコッとして頭を下げる。

「ええよ。遠慮せんと、どうぞ」

「はい」

 そう言いながらも、謙杜はなぜか、ためらうように、フォークを握ったまま、じっとしている。

「あの、大吾先生。……声、かけてもいいですか?」

「ん? 何? 僕に?」

 戸惑っている僕に、謙杜が言う。

「麻さん、に……」


「え!!」

 思わず大きな声が出た。

「……もしかして、謙杜、聞こえるん?!」

「はい」

「え、まさか、前きたときも?」

「はい。駿佑の件で、前に来たときも」

「えええ、……聞こえてると思えへんかった」

 麻ちゃんも驚いている気配がする。


「はい。あのときは、言わんほうがええかな、と思って」

「……そうやったんか」

 僕は、あの日の様子を思い出す。

 2人とも、麻ちゃんの声に何も反応しなかった。

 町田君は僕に名前を言って、謙杜はニコッとして頭を下げた。

 ―――そうか!

 あの『ニコッ』は、僕ではなく、麻ちゃんに向けたものだったのか。


「ほんまは、あのあともずっと、ききたかったんですけど。もしかしたら、錯覚なんかな、たまたまなんかなとか、いろいろ思ったんで、きくチャンスなくって。それで、今日、先生の家に行くことになって、今度こそ、きいてみようと思って」

「じゃあ、ひょっとして、今日も? 聞こえてたん?」

「はい。『う~ん。むり』って、言うてはるの、聞きました」

 くすっと笑いながら、謙杜が答える。


「そっかぁ。聞こえてた……恥ずかし。物理は苦手でね」

 麻ちゃんが、笑いながら言う。

「野上 麻といいます。よろしくね。謙杜くん」

「はじめまして。あ、二度目まして? よろしくお願いします」

 謙杜は、ニコニコが止まらない様子だ。

「冷めるで、紅茶」僕が言って、

「ケーキもどうぞ」麻ちゃんが言う。

「すみません。僕らだけ食べて」

「いいのいいの。慣れてるし。まあ、究極のダイエット、と思えば」

 麻ちゃんが笑う。


 『究極の~』のフレーズは、このところ僕らの間の流行語だ。とくに、何か我慢しないといけないときなどに、『究極の』というフレーズをつけて、笑いにかえるのだ。


「はあ。じゃあ、すみません。いただきます」

 謙杜がケーキを口に運ぶ。

「うっま~。これ、どこのケーキですか。今度買いにいきたい」

「この近くの四季っていうカフェの」

「へ~、そうなんすか。ええこときいた」

 謙杜のほっぺたが幸せそうに、ふくらんでもくもく動く。

 可愛いな。

 僕が思ったとき、謙杜が言った。

「あの、麻さんの声って、めっちゃきれいで、可愛いですね。初めて聞いたときから、そう思ってて。めっちゃ、僕の好みの声なんです」

(むむむ。謙杜、僕と同じやん)


 後半は、物理の問題は、宇宙の彼方にとんでいった。謙杜の質問は、物理ではなく、もっぱら、麻ちゃんと僕たちに向けての質問になり、中には、まだ僕が知らなかったような話も、麻ちゃんから引き出してくれた。

(謙杜、グッジョブ!)

 内心、僕もそう思ったりしつつ、時間が楽しく過ぎていった。


 8時近くなって、

「じゃあ、また来ます。またしゃべりましょね、麻さん」

「はい。お待ちしてます」

「じゃあ、ありがとうございました。おじゃましました~」

 ぺこりと頭を下げて、ニコニコ手を振って、謙杜が帰って行った。


「びっくりしたね」

「うん。ほんとびっくりした。でも、いい子やね」

「うん。そやな。麻ちゃんの声のファンができたね」

「ふふ。ファンクラブつくろうかしら」

「いいね。僕が、会員第1号や」

「じゃあ、謙杜くんが2号?」

「ちゃう。あの子は特別会員。正会員は、僕ひとりだけ」

 あとにも先にも、僕だけ。

「大ちゃん、意外と」

「意外と、何?」

「言わぬが花~」

 麻ちゃんが笑いだす。


(そや。僕は、麻ちゃんを独り占めしたいねん。だめ?)


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