第21話 ただ、じっと・・・
「じゃ、行ってくるね。麻ちゃん」
「いってらっしゃい。あ、」
「ん?なに?」
「ううん。何でもない。気をつけて行ってらっしゃい」
麻ちゃんは、なんとなく、僕の心が動揺していることを察しているのかもしれない。何かを言いかけて、やめた。
「じゃ、行ってきます」
もう一度僕は言って、静かに部屋のドアを閉めた。
部屋を出て、僕は、昨日訪れた店、『四季』を目指して歩く。
今日も、あざやかな青のアジサイが、僕を迎えてくれる。絵を見たいので、と告げると、2階の席に案内された。
めざす絵は、窓越しに柔らかな光が差し込む壁に飾られている。
僕は、その絵がよく見えるように、椅子の位置を少しずらす。
前髪は少し長め。
肩にかかる髪は、柔らかいウェーブを描いて、ふんわりと肩にかかっている。口元は、少し口角が上がっていて、今にも、しゃべりだしそうだ。左手の指と手のひらで本を挟むようにして持ち、右手はそっとページをめくろうとしている。
目の前のテーブルに置かれたカップからは、かすかな湯気が上がっている。
(早く飲まな、さめるで)
僕は、心の中で、絵の中の彼女に話しかける。
(うんうん。このページだけ読んだらね)
彼女の返事が聞こえる気がする。
(本読み始めたら、とまらへんからな、麻ちゃんは)
(大ちゃんこそ、紅茶、さめるよ)
(あ、ほんまや。人のこと言うてる場合とちゃうかった)
絵の中の彼女と向かい合った僕は、心の中で会話する。
「こんにちは」
声がして、急に僕は現実に引き戻される。
顔をあげると
佐野恭平君が立っていた。
「こんにちは。もう一回、ゆっくり見たくなって、来てん」
「そうっすか。ありがとうございます。もう一回と言わず、何回でも見に来てください」
彼は、少しはにかんだように笑った。
「この絵、なんか、めっちゃ心がこもってるのがわかる」
「めっちゃ、心込めて描いたんすよ。……いつか、この人とまた会えたらええなあって思いながら。会われへんようなってから、ずっと思い出しながら描いてて……」
「すごくいい笑顔やね」
「そうなんすよ。特に、本読んでるとき、めちゃめちゃ嬉しそうで、楽しそうで」
「うんうん」
「時々、読みながら泣いてるときもあって。いっぺん、オレ、ティッシュあげたことありますもん。読みながら、泣いたり笑ったり、いろんな表情で、でも、夢中になって本読んでる姿が、なんか可愛くて、ええなあって。いや、たぶん、オレより、ちょっと年上やと思うんすけど。彼女の読んでる本が気になって。でも、文庫本とかは、いつもブックカバーがかかってて。題名わからんくて」
「きいたら、たぶん教えてくれたやろな。めっちゃ、喜んでどんな本なのか、一生懸命説明しそう……」
「たぶん。でも、この本は、たまたま、合うカバーがなかったのか、そのまま読んでたんで。オレ、急いでメモして……」
麻ちゃんだ、きっと。佐野君が、語るその人の特徴は、まちがいなく、彼女だ。
僕は、初めて、麻ちゃんを知っている人に会った。
一瞬、ぼうっとした僕に、佐野君が言った。
「……もしかして。伏見さん、彼女のこと、知ってはるんちゃいますか?なんか、昨日からそんな気がして……」
佐野君の顔は真剣だ。
「もし、知ってはるんやったら……オレ」
僕は、迷いながら答える。
「たぶん、知ってると思う。僕の知ってる人と、特徴がすごく似てる」
「あ、横顔やから、わかりにくいですか。オレ、いつも横顔ばかり見てたから。でも、特徴ていうか雰囲気は掴んでると思うねんけど……」
麻ちゃんのことを、僕は彼にどう話せばいいだろう。
しばらく迷ったあと、
「佐野君」
僕は、やっと口を開く。
「恭平、でいいっす。流星と同じように下の名前で呼んでもらって。オレも、大吾さん、て呼びます」
どさくさ紛れに、お互いの呼び方の距離が縮まる。
距離を縮めることで、彼は、僕の言葉を引き出そうとしているのかもしれない。
僕が、彼に、やっとの思いで告げることができたのは、彼女の名前が、野上 麻であること。彼女は、半年以上も前に、急病で、亡くなったこと。
今は、声だけの存在として、僕の部屋に住んでいるということを、僕は、とうとう言い出せなかった。
それを知らせることが、彼にとっていいことなのかどうか。僕には、どうしてもわからなくて。
ずっと会える日を待っていた人に、
もう二度と会えない。
会いたいのに、もう、どうしても会えない。
恭平と僕はふたりして、柔らかくほほ笑む麻ちゃんの絵の前で、涙を止めることもできずに、ただ、じっと佇んでいた。
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