第20話 心の奥で
「その本、知ってるよ。懐かしいなあ」
帰ってすぐ、僕がそのタイトルを口にすると、麻ちゃんは言った。
「どんな話? 自分でも読むつもりやから、ちょっとだけ話して」
僕が言うと、麻ちゃんは話し出した。
(えっとね。ある男性がね、たしか会計士かなんかだったかな?
その人が、ある年、クリスマスを祝うのにかかる費用を計算してみて、それが、結構な額だと気づくの。これは、もったいない。これだけあれば、カリブ海クルーズかなんかで、バカンスを優雅に楽しめる。
いつもの年なら、娘もいて、家族みんなで祝うから、ツリーを買って、ごちそうを作って、家の周りを、きれいにイルミネーションで飾ったりするんだけど。その年は、娘が海外に行ってしまって帰ってくる予定はない。
もうめんどうなクリスマスの準備を全部スキップしちゃおう、つまりすっとばしてしまおう。そして、浮いたお金で、クルーズに行こう。
そう考えるの。
そして、クリスマスに関する支出を徹底して、拒むの。例えば、クリスマスの寄付金を集めにくる人にも、町内のみんなでコンテストに応募しようとしてるイルミネーションも自分はやらない、と言ったり。当然、いろんな人とぶつかりまくってね。
奥さんは、そこまで何もかも拒まなくても、と思ってるんだけど、旦那さんは聞く耳持たなくて。
ところが、いろいろ思いがけない出来事が起きてね……。さあ、彼ら夫婦のクリスマスは、一体どうなるのか。)
「ということで、続きはぜひ読んでみてね。今はどうか知らないけど、私が読んだ頃は、日本語訳はでてなくて、原書で読んだけど、けっこう、テンポよくて読みやすい本だったよ。映画化されて日本語字幕付きで発売されたものは、ちょっとドタバタした演出だったから、原作の方がおすすめだったと思う」
「じゃあ、明日にでもさがしに行ってみるわ」
「何で急に、クリスマス?」
「いや、今日、行ったカフェで、その本を読んでる女の人の絵を見てん」
「カフェ?どこの?」
「ここから、歩いて行けるくらい近いとこ。古民家風の2階建ての家で、1階にも2階にも喫茶スペースがあって、ケーキとかスイーツを買って帰ることもできるお店やった」
「なんていう名前のお店?」
「あ、そういや、名前みてなかった。流星にひっぱって行かれたから、あまり気にしてなかった」
「四季、じゃないかなあ」
僕は、スマホで調べてみる。
その名前で、出てきた店の写真は、僕がさっきまでいたところだった。
「やっぱり……。そっかあ。大ちゃんも行ったんだね。素敵なお店だったでしょ?」
「うん。ケーキも、美味しかったし。何より、壁にかかってる絵が、すごくよかった」
「うんうん」
「その絵を描いた人にもあったよ」
「きょうへい君、でしょう?」
「え、麻ちゃん、知ってるの?」
「うん。お休みのときとか、そのお店、けっこう行っててね。いつだったか、絵をじっと見てたら声かけられて。何度かしゃべったことがある」
「へ、へえ……」
僕は、少し声が上ずる。
(あの絵は、もしかしたら。)
「じゃあ、知り合い?」
「ううん。下の名前だけ。絵にサインが入ってたからね。だから、彼の苗字も知らないし、向こうは、私の名前も知らないし。でも、何度か、あのお店で出会って、絵を見ながらおしゃべりしたことがある」
麻ちゃんの声はとても懐かしそうだ。
僕は、胸がきゅうっと締めつけられたようになる。
佐野恭平と麻ちゃんは出会っていた。
そして、言葉を交わしたこともあって。
僕が、声しか知らない麻ちゃんと、彼は知り合っていて。
僕が、声しか知らない麻ちゃんと、彼はおしゃべりを楽しんで。
僕が、声しか知らない麻ちゃんの、笑顔を彼は知っている。
彼の絵の中の、笑顔の可愛らしい横顔が、僕の頭の中に
何度も何度も浮かんでは消える。
これは、嫉妬?
それとも?
わからないけど、僕は、めちゃくちゃ動揺していた。でも、動揺しながらも、僕は、明日もう一度、あの店に行こうと思った。もう一度、あの絵を見たいと思った。
どうしても、見たいと思った。
「大ちゃん? どした?」
「ううん。いや、ちょっとぼーっとしてた。今日はいろいろ忙しかったから」
「そっか。おつかれさま。晩ご飯食べて、お風呂入らなくちゃね」
「うん。そやな。そうしよ。めんどくさくなるまえに、さき、風呂入ってくるわ」
僕は、急いで立ち上がって、風呂場へ行く。
シャワーを浴びながら、僕は、動揺する心のままに、シャワーの水に紛れて、あふれてくる涙を流す。自分でも、その涙の意味が、よくわからないまま。
ただ、もう一度、あの絵を見よう、そればかり思った。
お風呂のあとは、いつも通り、手早く夕食を作って、テレビを見ながら、麻ちゃんとおしゃべりする。
彼女のリクエストに応えて、今夜は、歌番組を見る。
画面の中では、彼女の好きなアイドルグループが、片思いの切ない想いを描いた
ラブソングを歌っている。歌詞も曲も歌声もめちゃくちゃよくて、麻ちゃんはうっとりしている。そして、彼らの歌のあとも、しばらく、お気に入りのフレーズを
口ずさんでいる。
きっと嬉しそうに笑っているんだろう。
僕からは見えないけれど。
今夜は、声がそばにいるのに、麻ちゃんを遠く感じてしまう。
彼女の声がこんなにも僕のそばにいるのに。
その笑顔に、どんなに会いたいと願っても、僕には絶対叶わない願いで。
どんなに求めても、僕の思い出の中には、彼女の姿はない。
どんなに望んでも、夢で見ることさえできない。
僕は、必死で平静を保とうと努力する。麻ちゃんに、こんな気持ちを知られないように。
でも、心の奥で僕はつぶやく。
会いたい、と思うことは
会えない、ということと、同じ意味だ。
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