第9話 夜の底
「なんかお腹空いたな」
萌がつぶやく。
「麻さん、ごめんね。麻さん食べられへんのに、あたしら食べるけどいい?」
「大丈夫。慣れてるから。それに、お腹すかないし」
「じゃあ、ちょっと、そこのスーパー行ってなんか買ってこよか」
僕が立ち上がると、萌も立ち上がって、
「大ちゃんに任しとったら、どうせ、おにぎりと野菜ジュースくらいしか買ってこなさそうやし」
「ピンポーン! 正解」
麻ちゃんが、横から笑いながら言う。
「もうちょっと、ちゃんとしたもん食べたいから、あたし、行ってくる」
そう言って、僕に手を差し出した。やむなく5千円札を渡す。
「諭吉でもいいねんけど。デザートも買うし」
5千円を回収して、ご指名の入った諭吉を渡す。
「しゃあないなあ。じゃあ、任せるけど、とりあえず、豚肉とキムチは買って来てや」
「あ、豚キムチ作るん? いいねえ~。了解。で、玉子あったっけ?」
「ない。玉子も買うてきて」
「わかった。6個入りでいいね?」
(なんか、この街の住人になった気分やわ、スーパー行くのって)と、嬉しそうに萌は出かけて行った。
麻ちゃんと僕は、一晩ぶりに、2人きりになった。
「麻ちゃん、びっくりしたやろ。ごめんな、萌が急に来て話しかけて」
「ううん。大丈夫。……ていうより、なんか嬉しかった」
「そう? そやったらいいねんけど。あいつ、けっこう強引なところあるから」
「大ちゃんのこと、大好きなんやね。大ちゃんが毎日どうしてるのか、いろいろ聞いてた」
「それにしても、まさか、僕の留守の間に、2人がいろいろ話してたとは思わんかった」
「そやろ?」
「あ、麻ちゃん、萌の影響だいぶ受けたね。萌としゃべると、みんな関西弁うつるねん」
「うん。萌ちゃんもそう言うてた。日本全国あちこちから来てる友達が、専攻の言語覚えるより先に、関西弁覚えそう、って言うてるって」
2人で笑う。
せっかく外国語学びに来てるのに、それより先に関西弁覚えてしまいそうって、そら困るやろ。
「語学好きっていうところも、すごく話が合ってね」
「そうみたいやね。さっきも、めっちゃいろんな外国語の文字の話とかもしてたもんな」
「うん。ほんとに、面白い。なかなかいてないよ。こんなに話の合う子って」
感心したように、麻ちゃんの声に力が入る。
「……僕は?」 少し、恨めしそうに僕は言う。
「お、やきもち?」麻ちゃんが、軽口をたたく。機嫌のいい証拠だ。
「かもね」
僕は、頬杖をついてわざと横を向く。
どっちに麻ちゃんがいるかわからないけど。
少し、笑いを含んだ声が言う。
「昨夜は、誰とも話せなくて、すっごくさみしかったよ。大ちゃん」
「うん」 (誰とも、ね。話せたら誰でもええんやね?)
僕はそっけなく短く答える。
「大ちゃんがここに引っ越してきてから、話さない日は一日もなかったから」
「うん、そやね」
「毎日、話するのが当たり前で。……なんか落ち着かなかった」
「うん。……僕もや」
「だから、大ちゃんが帰ってきて、ただいまって言ったとき、めっちゃ嬉しかった」
「うん。僕も、おかえりって麻ちゃんの声聞いたとき、ホッとして、嬉しかった。萌の声と2人分で、ちょっとびっくりはしたけど」
ふふ。滲むように笑う気配。
「大ちゃん。……おかえり」
「ただいま、麻ちゃん」
昨日家を出てからずっと聞きたかった声が響く。
僕は、麻ちゃんを、今、すごく抱きしめたいと思った。
―――抱きしめるかわりに、組み合わせた両手に、そっと力をこめた。
萌が、買ってきたのは、伏見家特製の豚キムチの材料。それと、いろんなお惣菜。
今日は、久しぶりやから、あたしが作ったげるわ、そう言って、萌がキッチンに
立つ。
ここの台所はけっこう使いやすいね、とか言いながら、萌は案外手際がいい。
僕ら兄弟妹は、基本、家事は自分のことは自分で、をモットーにした両親の方針の下に育ったので、たいがいのことは、できる。できるのはできるけど、上手いかどうかは、別だ。
一番上手なのは、たぶん、和兄だと思う。その次が萌で、僕が一番ヘタかもしれない。そんな僕に、ちゃんとしたご飯を食べさせようと気にかけてくれる萌が、ありがたかった。
夜も更け、萌は、明日は朝から国際マンガミュージアムに行く! と言って、
となりの部屋に敷いた布団に横になると、あっという間に寝息を立てている。いつもながら、寝つきがいい。うらやましいくらいだ。
夜、なかなか寝つけないとき感じるのは、夜の底に一人っきりで取り残されたような、何とも言えない焦り、そして孤独。
どんなに目をつぶっても、眠り方が思い出せない。早く眠りたいのに、どうしても眠れなくて、焦れば焦るほど、頭が冴えてしまう。
そうやって、眠れないまま迎えた朝は、昨日の夜の続きの中にあって、暗い沼に足をからめとられているみたいに、空気が重い。
みんなは新しい一日に向かってスタートを切っているのに、自分だけが、昨日と今日の狭間に落ち込んでしまったような、そんな気持ちになる。
でも、この部屋で暮らすようになって、僕は、そんな孤独をすっかり忘れていた。
「麻ちゃんのおかげやな」
「ふふ。お役に立てて光栄です」
そんな話をしながら、僕と麻ちゃんは、一緒の時間を過ごす。
夜は暗い沼の底ではなく、青く透明な湖の底ようだった。
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