第5話 この気持ちが
「大ちゃん。大ちゃん!」
僕を呼ぶ声がする。 すっかり聞きなれた、心地いい声。麻ちゃんだ。
「うん。うん」
布団の中で、まだ半分しか開いていない目で、ぼんやりしたまま、返事をする。
「大ちゃん、大ちゃん!!」
声のボリュームが少し上がった気がする。
「うん、うん。聞いてるよ」
いつもは、僕が身支度を終えたあたりで、おはよう、と声をかけてくるのに、今朝は、なぜか、まだ布団の中でまどろんでいる僕に、繰り返し声をかけてくる。
「どうしたん? ……」と言いかけて、僕は、ハッとした。
そうだ。今日は、ゼミ合宿で、奈良県吉野へ出かける予定が入っていた。すっかり忘れて、眠りこけていた。
それというのも、昨夜は、面白い文献を、ゼミの准教授から貸してもらって、夕食後も、ひたすら読みふけって、眠りについたのは、ほとんど3時になろうかという頃だったのだ。
確か、寝る直前に、明日、6時半になってもまだ寝てたら起こしてな、なんて、麻ちゃんに話しかけたような気がする。
「大ちゃん、今日ゼミの合宿で、6時半起きだと言ってたから」
「うん。そうやった。すっかり忘れてた。起こしてくれて、ありがとう。助かったわ」
「どういたしまして。荷物の用意は大丈夫?」
「うん。一泊やから、たいして荷物はないねん」
そう答えながら、着替えと歯ブラシセットと読みかけの本をカバンに入れる。
「朝ごはんはどうする?」
「京阪電車の中で、おにぎりでも食べよかな」
「いいね。特急に乗ると、ちょっと旅気分味わえるよね」
たしかに。普通の通勤電車の中では、おにぎりなんて食べられないけど、観光地の特急だと旅行客っぽく、駅弁気分がちょっと許される気がする。とはいえ、京阪電車は通勤通学客も多いので、
「やっぱり、家で食べていくわ」
冷凍しておいたおにぎりをレンジで温め、野菜ジュースとあわせて朝ごはんにする。
朝食を終えて、大急ぎで、身支度を整える。少し、眠い。目がしょぼしょぼしている。コンタクトレンズはせずに、メガネをかける。黒縁で大きめのフレーム。
(なんか、そのメガネかけたら、大ちゃんめっちゃ眠そうに見える)
と萌はいうけれど。
これを使うのは、睡眠不足とかでレンズを入れにくいときが多いので、ふつうに
眠くて、自然と眠そうな顔になっているんだろう。メガネのせいじゃない。でも、よほど僕が眠そうに見えたのか、麻ちゃんが心配そうに言う。
「電車で眠りこけて乗り過ごさないように気をつけてね」
「うん、そやねん。僕もちょっと心配。集合が、近鉄阿部野橋駅やから、途中までは
家に帰る路線と同じやねん。うっかり家に帰ってしまいそうやわ」
「ふふふ。それもありじゃない?」
「そやな。じゃあ、寝てて乗り過ごしたら、実家に帰るということで」
「ていうか、乗り過ごさなくても、合宿の帰りに、ほんとに実家によるとかは?」
「うん。明日の状況次第かな。もしかして、そうなった場合は、泊まってくるかもしれへんけど……」
かまへんかな? と聞きそうになって、その言葉を飲み込んだ。
「うん。ゆっくり過ごしてきてね。いってらっしゃい」
麻ちゃんの声はおだやかだ。
「行ってきます。留守の間、この部屋をよろしく」
「うん。まかせて」
僕は、部屋を出て、駅へ向かう。
電車は、案外空いていて、僕は窓際の席に座る。カバンから取り出した本のページを開く。でも、その手はすぐ止まってしまった。そして、さっき自分が飲み込んだ言葉について考える。
集合解散場所が阿部野橋駅と聞いたときには、久しぶりに実家に帰るのもいいな と、一瞬、僕は思った。
でも、次の瞬間に頭に浮かんだのは、麻ちゃんが1人になってしまうということ。
半年間、誰かと話すことも、あの部屋からどこかへ出かけていくこともできずに
過ごしてきた彼女が、どれだけ僕と会話できることを楽しんでいるか、僕には、よくわかる。
引っ越してきてから、僕が外泊するのは、今回が初めてだ。彼女はきっとさみしく思っているだろう。
いや、正直に言おう。僕がさみしい。
僕自身、自分の部屋で彼女と会話して過ごす時間が、とても気に入っている。
単純に「癒される」なんて言葉は使いたくないけど。彼女の声と過ごす時間、僕はホッとして安心できるし、楽しい。今晩、彼女と話せないと思うと、僕自身が、さみしいのだ。
僕たちは、同棲しているカップルでもなければ、付き合ってる恋人同士でもない。
彼女は声だけの存在で、僕は彼女の顔も知らない。でも、僕たちは、同じ部屋で毎日言葉を交わす。
お互い生きているときに、その存在を知らずにいて、それでも今、こうして、二人で一緒に時間を過ごすことになっている。
一緒にいて気持ちのいい人。
笑いのツボが同じ人。
泣けるツボが同じ人。
ずっと一緒にいたいと思える人。
話していると、話が止まらなくなるくらい楽しくなってくる人。
でも、沈黙しても居心地がわるくならない人。
これまでも、理想のタイプはどんな人? と聞かれて、そんなことを答えたこともある。
彼女と過ごし始めて半月を過ぎ、彼女に対して、僕の中に生まれてきたこの感情がなんなのか、自分でもまだよくわからない。
そして、彼女にとって、僕がどういう存在なのかも。
ただの気安いルームメートに過ぎないのかもしれない、とも思う。
そういうなんだかごちゃごちゃした気持ちになって、一瞬、僕は
(かまへんかな?)という言葉を飲み込んでしまった。
そんなにごちゃごちゃ考えずに、
(2泊、外泊してくるで、留守になるけどかまへん?)て、ふつうに軽く聞いても、全然おかしくないのに。
ちょっと意識しすぎてしまった。
ふつうに、一緒に過ごす人への気遣いをすればよかっただけだ。
僕は、少し気を取り直して、列車が滑り込んだ淀屋橋のホームに目を向ける。とうとう、膝の上に置いた本は読まずじまいだった。
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