第3話 ちょっとだけ

「ところで、何とお呼びしたらいいでしょう?」

 彼女の声が、明るく言った。

「う~ん。そうですね。自分の家にいてるのに、お互い苗字+さん呼びやったら、まるで職場とかにいるみたいで、落ち着かへんっていうか、くつろがれへん感じやしね……」 

 僕は、小さく口の中で、野上さん野上さん、と繰り返してみた。

「伏見さん伏見さん」 彼女も小さく繰り返している。

「そうやね」「そうだね」

 声が重なる。

「それじゃあ、ひとまず、名前にさん付けでは?」

「麻さん」 「大吾さん」 また声が重なる。

「あささん」

「だいごさん」

 なんだかちょっと照れくさい気もするけど、

 相手の顔が見えるわけではないので、それほどではない。

「あささん」 ただ、ちょっと言いにくいかも。

「はい、なんでしょう?」

「ちょっと言いにくい気がするんやけど」 僕は、思い切って言う。

「ささ、って続くので、言いにくいっていうか、ちょっと言いながら気持ちがあせる感じっていうか……」

「たしかに。それは時々言われる」

 好きな名前なんだけどね。『子』かなんかついてれば、あさこさん、って言いやすかったよね。

 そう呟きながら、彼女は、あささんあささん、あさささ、とか早口言葉のように自分の名前を繰り返す。

「そうか、さん、だから言いにくいねん。ちゃん、でどうかな?」 

 僕は提案する。そして、呼んでみる。

「麻ちゃん」

「うわ。照れる。でも、なんか可愛くていいね。それ、採用~」

「では、麻ちゃん、大吾さん、で?」

「待って。どうせなら、ちゃん呼びでそろえようよ。だめ?」

「いや、べつにええけど。」

「じゃあ、大吾ちゃん」 

「あ、それはちょっといやかも。かわいすぎる」

「じゃあ、大ちゃん、で」

 それなら、小さいときからの友達や妹の萌からも呼ばれ慣れている。許容範囲といえる。僕自身としては、大吾、とか大吾君、とかって呼ばれる方が好みではあるけど。

「じゃあ、麻ちゃん」

「何? 大ちゃん」

 うん。いいかも。案外しっくりくる。

 ホッとすると同時に、もうれつに眠気が襲ってくる。今日は朝早かったし。力仕事もしたし。

「麻ちゃん。僕、まだまだ、麻ちゃんに聞きたいこともあるし、お互い、これから一緒にこの部屋で過ごしていくにあたって、お互い決めておいた方がいい約束事とか、あると思うねんけど」

「うんうん」

「でも、もう、今日は無理そう。めっちゃ眠なってきた。また、そのへんのことは、明日話さへん?」

「了解。じゃあ、おやすみ、大ちゃん」

「おやすみ、麻ちゃん」

 僕は、クッションにもたれたまま目をつぶる。

「あ、だめだめ、ちゃんとお布団のとこで、寝ないと。ここでそのまま寝たらだめ」

 うん。たしかに。

 眠りに引きずり込まれそうになるのをなんとかこらえて立ち上がり、リビングの隣の和室に行く。布団はすでに敷かれている。

 そういえば、帰る前に、

(いつでも寝られるように、となりの部屋、布団敷いとくで)

 和兄がそう言っていたのを思い出した。

 和兄は、さすがだ。気は優しくて力持ち、誰より頼もしく、留守がちの両親に代わって、僕と萌には親代わりのような存在でもある。

 転げ込むように、布団に入ると僕は瞬く間に眠りの世界に引きずり込まれた。



 カーテンの隙間から差し込む朝陽を感じて、気持ちよく目覚めた。こんなに気持ちよく目が覚めたのは久しぶりかもしれない。夢も見ずに熟睡した気がする。

 洗面所で顔を洗い、髪を整え、服を着替える。朝ごはん何にしよう? と考えて、そういえば、昨日おにぎりと野菜ジュースを買ってきたのを思い出す。

 そして、もう一つ思い出した。

 そうだ。麻さん。いや、麻ちゃん。

 なんだか一晩経ってみると、夢を見てたような気もする。昨日交わした会話は、現実だったのか? それとも、夢まぼろし? 

 まだ起きてから、その声を聞いていない。

 なので、試しにそっと声をかけてみる。

「麻ちゃん? ……おはようございます」

「おはよう、大ちゃん!」

 待っていたように元気な返事が返ってきた。

 そうか。やっぱり、夢じゃなかった。

 夢であることを願ってたのかどうか、僕は、自分でもよくわからなかった。

「さあ、また一日が始まりますよ~。今日のご予定は?」

「そうやな、まだ大学は始まってへんけど、ちょっとそのへん散歩がてら、出かけてみようかなと思ってる」

「いいね。京都はどこを歩いても楽しいしね。」

 麻ちゃんの声は少し羨ましそうに聞こえる。ふと気になって、僕は聞いてみる。

「なあ、麻ちゃんは、この部屋以外のところに移動できたりするん?」

 例えば、僕と一緒に出かけるとか?

「う~ん。よくわからないけど、この部屋から動けないような感じ……」

「……そうなんや」 

 ずっとここばかりじゃ、もったいないよな。

 そのうち、自由にでかけられたらいいね。

 心の中で、僕はつぶやく。でも、少し寂しそうに響く彼女の声に向かっては、言えなかった。

 麻ちゃんは、小さい声で、ぽつりぽつりと言う。

「この部屋を片付けに来た家族と一緒に一度は実家に帰ったの。でも、そのあと、気が付いたら、この部屋に戻ってきてた。それからずっと、ここにいてる」

「そうなんや」 

 僕の声も少し小さくなる。

「というわけで、まあ、まだいろいろ不慣れなので、しかたないです」 

 気を取り直したように、麻ちゃんが言う。

「うん。そやな。……よし、じゃあ、今日のところは、大ちゃんがいろいろ見てきて、帰ってきたら報告会するから、待っとってな」

 ちょっとおどけて言ってみる。 

 僕は、あまり、自分で自分のことを大ちゃんて言わないのだけど。(妹の萌に対しては別)

 そういえば。僕は、またまたハッとする。

 気を遣いながらも、昨日からけっこうタメ口をきいていることに気づいて言った。たしか、彼女は学校に勤めていた、と不動産屋さんは言っていた。

「あのさ、トシ聞いていい?」

「うん。25歳。大ちゃんは?」

「そうか。ちょっとだけ、お姉ちゃんなんやね。僕、22歳」

「ふ~ん」

「なんか不満そう?」

「別に。そんなことないけど。……ていうか、25歳なったばかりだったから、

ほとんど24歳。」

 ちょっとむきになってるみたい。僕はさらにきいてみる。

「タメ口でもいい?」

「ぜんぜん。 No problem.」

「やけに発音いいね」

「英語の教師やったもん」

「そうなん? 助かるわ~。僕、英語あんまり得意とちゃうから、わからへんとき

教えてな」

「うん。私でわかることなら」

 嬉しそうな声だ。

 なんとなく、彼女が、教室で授業をしている姿を見てみたかったな、と一瞬思った。きっと、めっちゃ楽しそうにしてたんじゃないかな。そんな気がした。


 おにぎりと野菜ジュースで朝食をすませると、僕は、麻ちゃんに、行ってきますを言い、街に出かけた。

 京都は、僕の大阪の家からは比較的近い(電車で1時間半ほど)。だからといって、そうしょっちゅう来られるわけではない。なので、京都は僕にとってあこがれの街でもある。

 どこから巡ろう。 ワクワクする。

 麻ちゃんも、京都はどこを歩いても楽しい、って言うてたけど、彼女の好きな場所はどこなんやろう。また、きいてみよう。

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