「そうだ、ごはんの時間」

 お腹が鳴った訳ではなかったけれど、流石にそろそろまずいと思った。この身体になって空腹を覚えることは少なくはなったが、それは食べなくて良いという意味ではない。栄養の摂取量が減れば代謝を維持できない。当たり前の話だが、どうしても忘れそうになる時がある。

 立ち上がって下着を着け和室を出ようとするわたしを、サクラコが半ば上体をもたげながら胡乱な目で見た。

 キッチンの調理台に山と積んでいた缶詰の中から、フルーツのシロップ漬けを適当に見繕って持ち出した。階段を降り、向かったのは半壊した向かい側の棟だ。上階の方は大きく崩壊して瓦礫の山が外壁沿いに出来上がっているような有様なので住居としては忌避されたけれど、2階から下は幸いにも破壊を免れていたのでわたしが個人的に使っている。

 鍵の掛かっていない202号室の玄関を開け、勝手知ったる振る舞いで土足のまま上がり込んだ。三和土にはかつての住人のものだろう靴が端の方に散らばっている。わたしが初めてここを訪れた時に、それらを足で薙ぎ払うように寄せたのを思い出した。破壊を免れたというのは建屋の形を保っているぐらいの意味で、壁紙は薄汚れその奥に大きなひび割れがあるのが凹凸ではっきりと分かる。

 廊下に上がり込んですぐ脇の扉を開けると、そこは殺風景な部屋だった。奥には木製のがっしりした椅子がひとつ。元はこんな公団には不釣り合いなくらいの立派なアンティーク調のものだったけど、今は何度となく表面を流れた血や体液が染みつき乾いて、どす黒くなっている。臭いは日に日に酷くなっている気がする。蛋白質の腐敗する臭いと、糞尿の臭いだ。

「ほら、食事」

 かしゃり、とプルタブを引いて缶詰を開け、椅子の上のそいつの口目掛けてシロップを乱暴に流し込む。弱々しく咽ながらも嚥下する喉の動きを見て、取り敢えずよしとした。

 椅子の上に縛り付けられているそいつは、大まかに言って人の形をしていた。頭部があって、頭部には目と口があって、胴体も大部分は残っている。でも、それ以外は殆どなかった。歯も鼻も耳も頭頂骨も腹膜も性器も手も足もない。皮膚はまだ残っているけど、そうじゃない部分の方が多い。それらは全て、わたしが切り取った。時間を掛けて、ゆっくりと、丁寧に。今やこいつは、ゆっくりと蠢く臓物を外気に晒しながら息をするだけの肉の塊に過ぎない。

 あの立体駐車場の屋上から、双眼鏡越しにナオタを殺したこいつを見つけた時、わたしの血圧は爆発的に上がった。「あいつ、あの腕に刺青のあるやつ、殺さないで」と反射的にユズハに頼んだ。普段から自己主張の乏しいわたしが珍しくつける注文に、ユズハは訳も訊かず応えてくれた。他の皆も、あのユズハが標的の両脚だけを撃ち抜くというイレギュラーに何かを感じたのか、そのままにしてくれていた。あの時のことは、本当に感謝している。

 ナオタ。わたしの可愛い弟。大混乱の中逃げ惑い、その後に起こった少年少女たちによる狂宴を、ナオタは生き延びることが出来なかった。暗い夜に怯え物陰に隠れるわたし達を見つけ出し、ただ自分の生きた証を欲するがためだけにわたしを凌辱し目の前でナオタを嬲り殺したこいつを、わたしはずっと忘れられなかった。ヒマリに拾われてからも、ずっと。きっと、わたしはこいつを恐れていると思っていた。二度と見たくない、恐怖の対象であるとすら。でも、そうではなかった。こいつを見つけたわたしは、ただ自分の為すべき仕事を知った。

 名前も知らないこの男は、色んなことをわたしに教えてくれた。それは例えば骨と神経をいっぺんに失った箇所が再生できないことであるとか、人間の生殖の可能性であるとかだ。

 生殖。そう、生殖は生けとし生けるものどもにとって大事なことだ。特に今のように絶滅の危機に瀕した人類にとっては。

 わたしには、明らかに妊娠の兆候があった。少量の出血と固形状のおりものがあり、日中はいつも眠気に襲われていた。ある日大量の出血と共に、その正体を知った。暗澹たる思いだった。わたしは、色んなものを失ってここに居るし、こいつはいつだってそれを思い出させてくれた。

 まだやり残したことはあった。目を最後まで残したのはその為で、出来ることならこいつの大事な人間を見つけ出して、目の前で同じような目に遭わせてやりたかった。

 でも、もういいだろうというような気持ちになっていた。達成感というよりは、冷めたような諦めたような、自分でも説明のつかない不思議な心持ちだった。ただ、潮時なのだと思った。

「ね、聞こえる?」

 反応はない。わたしがこの部屋に入った時も、何の反応も示さなかった。もうここ最近はずっとそうだ。

 溜息をついて、部屋の隅に立てかけてある鉈を片手に持ち、振りかぶった。


 玄関を出て階段をコツコツと降りると、踊り場にモモカの姿があった。幾分落ち着いた様子で、どうやらユズハはなけなしの在庫を振舞ったらしい。目の下の大きな隈とこけた頬は、どこからどう見ても末期中毒者のそれだった。きっと殆ど食事もとっていないのだろう。

「まだやってんの、こんなこと」

 ううん、とわたしは首を振る。

「もうは打ってあげたよ」

 痛み止め。それはわたし達らしからぬ迂遠な表現だった。モモカは顔を顰めた。

「そろそろここを引き払おうって、ユズハが」

「そっか」

「あのさ、出てってくんない?」

 唐突にモモカが切り出した言葉は、しかし決して予期できなかったものではない。わたしは首を傾げた。

「それ、わたしだけ? サクラコも一緒に来ると思うけど」

 一層顔を歪め、聞こえよがしに舌打ちするモモカ。

 白兵戦において無類の強さを誇るサクラコがいなくなるのは、モモカならずとも困るだろう。わたしも、それを分かっていて揶揄している。

「あんたさ、何の役にも立ってないじゃん。ヒマリのおきにだかなんだか知んないけど」

 そのヒマリはもういない。わたしはうふっと笑ってしまった。

「ヒマリがやられたのは、誰の禁断症状のせい?」

 モモカは口を噤んで、ぐっと私を睨みつけるばかりだ。話は終わったみたいなので、わたしはその脇をするりと通り抜ける。目を合わさずに、言った。

「仲良くしようよ。役立たず同士さ」

 階段を降りながら、背後に痛いほどの視線を感じた。

 そのまままた向かいの棟へ、わたしとサクラコの部屋に向かう。

 サクラコはリビングの共用スペースで、ソファに座って本を読んでいた。そうしていると、大人しい黒髪の文学少女にしか見えない。

「あ、おかえり」

「ただいま。何読んでたの?」

「乱歩の短編集」

 彼女の膝の上で閉じられた文庫本は表紙が無く、端の方はもう紙の繊維が解れて捲れ上がっている。

「好きだよね、それ」

「そうかな」

「そうだよ」

 言いながら、わたしは二人掛けのソファの開いているスペースに身体を滑り込ませた。サクラコは腰をずらしてくれたけど、その分だけわたしは更に距離を詰めて密着した。

「なあに、もう」

 困ったような顔で笑っているサクラコの顔を間近に見ながら、わたしも笑みを浮かべて言った。

「大好き、愛してるよ」

 サクラコはちょっとびっくりした顔をして、それから笑った。

「何言ってるの」

 でも、満更でもなさそうな顔だ。何の想いも籠っていないわたしの空虚な言葉に、彼女は健気にも応えてくれる。


 それからわたしはまた部屋を出て、今度は団地の裏手に向かった。そこにはちょっとした広場があって、ベンチや遊具が置かれている。かつては住人達の憩いの場だったのだろうけど、もう何年も手入れをされていない花壇は雑草が生え放題で、元々何が植わっていたのかもうさっぱり分からなくなっている。広場の遊具も、夏を迎えようとする熱気と湿気のもと元気に繁殖するツタに半ばからめとられていた。その一画、敷地の端にあるブロック塀の間際にまだ草の生えていない箇所があって、土が盛られている。

 ここに、皆でヒマリを埋葬した。

 陽はもう、随分と傾いている。底抜けに赤い、夕焼けの時間だ。長く黒いわたしの影が、土饅頭を覆い隠さんとしている。刻一刻と、地表から熱が失われていくのを肌で感じる。

 これ以上なく簡素でいながら、この世界ではもう贅沢な貴重品となった墓の前で、わたしは考える。

 わたしたちが、いや、わたしが失ったものは、何なのだろう。

 わたし達は生殖が出来る。つがいを作って子を産んで、またかつてのように地上に溢れる事は無理でも、短命種なりの繁栄を目指す事は不可能ではないだろう。文明の残滓を漉しとりながら、種は存続する。変わってしまったなりの姿で。でもそれが、何になる? わたしにはそれが、どうしても魅力的なプランには思えない。

 1年後、何していたい?

 生きていたい。

 それが今、わたしにある全てだ。

 家族を失って、恩人やともだちを失っていくうちに、わたしが失くしてしまったもの。わたしの中から抜け落ちてしまったもの。

 それは多分、愛と呼ぶべきものなんじゃないかと思う。

 愛が何かなんて、今も昔も一言で答えられるものではない。ただ、わたしの中から永遠に失われたものがあったところは深く開いた穴のようになっていて、ぽっかりと空いた穴の辺縁をぺたぺたと触ってみるに、それはどうも愛の形をしているらしいとわたしは直感する。

 ただ生き汚く生きて、すぐそこにあるグズグズの死を待つだけのわたし。昼と夜の境目を、正気と狂気の狭間を生きるわたし。だからやっぱり、この残酷なほど赤い夕焼けの時間は、わたしに相応しいと思う。

 さて、儀式をしよう。それは、これを機にあなたを思い出すことは無いというひとつの区切りだ。余計なことはもう考えない。愛が何かなんて、考えてはいけない。それはわたしには必要のないものだから。

 わたしはヒマリの墓の前で手を合わせ、目を瞑る。


 パパ、ママ、ナオタ。わたしは今日も元気で、今日も希望にあふれた素晴らしい一日でした。もうすぐそっちにわたしの友だちが行くけど、仲良くしてください。

 顔は半分ないし、変な歌を歌ってるけどね。

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