この団地に居を構えようと言い出したのはヒマリだった。冬の少し前だったように思う。半分ぐらいの建屋は見るも無残に倒壊していて廃墟然としていたけれど、本格的に寒くなる前に根城を確保できるのは有り難かった。

 この件に限らず、彼女はわたしたちを率先して導くリーダーであり、わたし達もそうである事を暗黙の裡に了承していた。わたし達の中では一番年上で、まだ中学生のわたしや高校生なのにわたしと大して変わりない体つきのモモカと違って、足首やウエストの辺りはきゅっとくびれているのに、胸もお尻も大きく張り出していた。

「ここ、電気は来てるの?」

 水道は? 先客はいる? 他の奴らの縄張りは近いの?

 そう矢継ぎ早に質問を浴びせるのはユズハだった。別にヒマリに盾突いている訳ではなく、わたし達の中でユズハが飛び抜けて用心深いだけだ。

「電気は来てない。水道は止まりがちだけど、使えない事はないよ」

 だから穴場なの、と現に気を悪くした風もなくヒマリは答えた。

「前から目を付けてたんだけど他に誰か住んでる形跡もないし、縄張り争いにもしばらくは縁が無さそう」

 ふうん、とユズハはどこか納得いかない風に一重瞼の奥の目を細めたが、「まあヒマリがそう言うなら」と最終的には引き下がった。高さ方向が使えるというのは、彼女にとっても大きなメリットなのは明らかだった。

 ユズハの愛用する得物は、光沢のないカーボンブラックのライフル銃だ。どこからそんな物を手に入れたのか訊いたことはあるけれど、教えてくれなかった。ただ大事なのは、相手がこちらを視認すらできない遠距離から攻撃できる手段を持つということだ。いかなる戦闘シーンにおいても、それは言うまでもなく大変な利点なのだから。おまけにユズハは、誰もが目を剥いて驚くほどの腕っこきだった。菓子パンを思わせるようなみっしりと肉の詰まった逞しい手は、しかし流れるように銃器を操ることが出来た。

 一度だけ、彼女が目標を狙撃する所を間近で見た事がある。とあるホームセンターを根城とするグループを強襲する時の事だ。物資の補充の為に、どうしても彼らを排除する必要があった。その時わたしは双眼鏡を持って、観測手の真似ごとを請け負っていた。

 立体駐車場の屋上で身体を折り敷き、スコープの倍率を調整しながらユズハは何か数字のようなものを呟いた。恐らく彼我の距離の目測だろう。そこからは、淡々としたものだった。肩にストックを添えスコープに片目を当てて、静かに呼吸を整えてから息を止める。引き金を絞る。射撃は正確無比で、発射された弾丸はすべて標的の頭部に命中していた。轟音が廃墟に響くが、音が届くより前に弾丸は標的に届き、恐らく膝をつくより先に彼らは絶命していたに違いない。双眼鏡のレンズの向こうで、赤い花が幾つも咲いては散った。

 訳の分からない内にリーダー格を始めとする戦力を失った相手グループは、あっさりと恐慌状態に陥った。そこに刀を構えた切り込み隊長のサクラコが突っ込んでいく。物陰から躍り出て物凄いスピードで接近し、すれ違うように手や足の腱を狙うのがサクラコの定石だった。どれだけ治癒力が高くても、切れてそれ自身の張力で縮みあがった腱はそうそう回復しないのをよく知っているからだ。そうして動けなくなったところに、鈍器を手に持つヒマリとモモカが後始末をして回って終わり。それがわたし達の必勝パターンだった。

「別に面白いもんでもないでしょ」

 全てが終わったのを見届けた後、満足そうな顔つきで煙草を燻らせながらユズハは言った。

「そんなことないよ」

 本音だった。彼女はお世辞にも見目麗しいとは言えないが、自分のやるべき仕事を弁えている職人だけが持つ、所作の美しさがあった。


 隠れる場所なんてないのさベイビー、逃げる場所なんてないのさ。

 それはヒマリが生前よく口遊んでいた歌だ。わたしが生まれるずっと前のロックシンガーが歌っていた曲らしい。なんていう曲なのか、ついぞ訊くことは出来なかった。その頃には、ヒマリはとうに正気を失っていたから。

 冬の厳しさが和らいできた頃、ヒマリは大怪我を負った。正直油断だったと思う。少人数のグループが相手だったけれどその中に妙に勘の鋭い奴がいて、斥候を務めたヒマリとモモカが逆に襲われた。射線を確保できなかったせいで、ユズハの援護も遅れた。

 ようやく駆け付けたわたしとサクラコが見たのは、ぼろ雑巾みたいになって地面に転がるモモカと、その傍でヒマリに馬乗りになっている大柄な少年。それと、そいつが今まさにヒマリの頭部に振り下ろさんとする、先の尖ったシャベルだった。

 ヒマリは、頭部を大きく損傷した。一命は取りとめたけど、顔の右半分と頭蓋の一部、それと前頭葉のあたりはもう戻らなかった。

 流石に脳へのダメージは後を引いたのだろう、丸3日の間、ヒマリは生死の境を彷徨い、私たち4人が入れ代わり立ち代わり、付きっ切りの番をした。

 目を覚ましたのは4日目の朝で、その時はわたしが傍にいた。うつらうつらと舟を漕いでいたのだが、ヒマリの咳き込む声に慌てて顔を上げた。

「あれ、私の、」

「触っちゃ駄目」

 上体を起こし自分の顔を触って傷を確かめようとするヒマリの腕を、わたしはそっと押さえた。

「今お水持ってくるから」

「私の顔どうなったの?」

 どこか呂律の回らないような口調の問いに、わたしは何も言えなかった。血は止まっていたけれど、顎は上下が大きく欠け、ようやく張り出してきた薄皮はその直下にある欠けた骨の歪さを詳らかにしていた。右目のあった場所は眼窩を皮膚が薄く覆って、べこりとへこんでいる。鼻も左の小鼻を少し残すばかりで、上の方に鼻道へと繋がる孔が大きく開いていた。かつての美貌は、見る影もなかった。

「ねえ、どうなったの」

「すぐに治るから、きっと」

 答えにならない気休めを言う私に何かを察したのか、ヒマリは俯いた。

「トモコ」

「え、え、なに」

「お水、ちょうだい」

「うん、ちょっと待ってて」

 立ち上がってヒマリから視線を切る間際、脳漿が蒲団の上に、どろりと垂れるのを見た。


 意識を取り戻してから、復帰は早かった。現状の報告をユズハからざっくり受けて、物資のことや周囲のグループの動向なんかについて質問をいくつも飛ばしては、打てば響く様なユズハの回答に頷く。わたしは嬉しかった。どれだけ見た目は変わっても、ヒマリはヒマリ、この中でいちばんのお姉さんで、わたし達のリーダーなのだと安心できた。

 でも、それはほんの一時のものだった。

 徐々に、奇矯な振る舞いが増えていった。突然歌いだすのもそうだし、何でもない事で泣いたり怒ったりした。

 弟の事を持ち出されるのは、殊の外辛かった。

「ねえ、弟くんのこと、ナオタくんだっけ」

「え、うん」

「私と顔合わせたらさ、怖がって逃げちゃってるの、かわいい」

「そう……」

 嘘だよ、嘘、ごめんね、と言ってヒマリはさも可笑しそうに笑った。皆いたたまれないような顔をしていた。

 他にも困った事が増えた。ヒマリが、しょっちゅう単独行動を起こすようになった事だ。毎日ではないけれど、夜になると時折ふらりと姿を消した。今まではそんな事、一度もなかったのに。

 戦利品はマニキュアの小瓶に始まり、一抱えもある缶詰だとか紙の本だとか日によってまちまちだったけど、一番多かったのは年端もいかない少年たちだった。ヒマリは攫って来た子供たちを無理やり犯した。それも決まって、わたし達の見ている前で。彼らの上に跨り粘着質な音を立てながら、ヒマリはとても楽しそうに笑った。

「気持ちいいのにどうして目を背けるの? 私の顔が怖いの? 傷口から、おミソが出てるから?」

 でも、誰もヒマリを止める事はなかった。

 日に日におかしくなっていったけど、それでもヒマリは優秀だった。ただ、どんな役割でもそつなくこなすリーダー然たる彼女は、どこにもいなくなった。代わりに現れたのは、性酷薄な、膿んだ脳漿の臭いを放つ獣だった。襲撃や交戦の時は、決まってヒマリが先陣を切った。何の躊躇いもなく赤子の頭を踏み潰し、泣き叫び命乞いをする人間を生きたまま半ば解体しては生き残りを誘き出す餌に使った。そういう行為が必要なこともあったし、そういう意味では適材適所の配置替えが起きただけとも言える。そういった、ヒューマニズムと呼ばれるべきものが邪魔なだけの行為に、ヒマリはうってつけだった。でも、そんな時の彼女には、絶対に近づきたくなかった。


「1年後、何していたい?」

 汗と体液でじっとりと濡れた畳の上に裸で並んで寝ていると、そんなことをサクラコに聞かれた。わたしは、しばらく考えてから「生きていたい」とだけ言った。掛け値なしの本音だった。

 サクラコは、わたしにとても深く依存している。普段は誰にも自分の領域に立ち入らせないようなクールな振る舞いをしているのに、二人きりになると途端に腕の中で甘ったれてくる。今さっきまでもそうで、そんなときわたしが少しでも冷たい素振りを見せると、途端に泣きそうな顔になる。それだけでは飽き足らず、「ごめんなさい」「何でもする」「捨てないで」そう言わせるのが今の密かな楽しみだ。

 濁ったような金切声が、同じ階のどこかで聞こえた。モモカの声だ。階段を挟んだ向かいの部屋が、モモカとユズハの割り当てだった。だから何かあればすぐに耳につくのだが、こういったことはここ最近毎日の事で、わたしもサクラコも別段驚きはしない。

 モモカは、しばらく前から重度の覚醒剤中毒に陥っている。わたし達のグループでは特に斥候を請け負う事が多い。わたし達にとってはただの雑音に紛れた何かにしか聞こえない物音が、彼女にとっては彼らの人数や性別、体調や持病の有無をも知らしめる色鮮やかな情報となる。確かにそういう時の彼女の耳目の鋭さは他の追随を許さない。ただそれは適切に服用しているときだけの話で、それ以外はがんぎまりになって瞳孔を広げながら荒い息を吐いているか、もしくは禁断症状で顔をしわくちゃにしながら頭を掻き毟っているかのどちらかだ。滅多なことが無いように薬の量はユズハが厳しく管理しているものの、この状況下ではそれすら怪しくて最近はずっと荒れ狂い、聞くに堪えない罵詈雑言をユズハに投げつけ当たり散らすばかりだった。

 モモカとユズハは高校の同級生だと聞いた。元はと言えば、単なるクラス内でのオタク友達らしい。でも今の彼女たちの関係を見ていると、それだけに留まるとは思えない。彼女たちの関係はどう見ても対等ではなく、ユズハが保護者然としている。だというのに、お互いがお互いに明確に依存している。それは、わたしとサクラコのそれとも少し異なっていた。モモカが禁断症状を和らげるのに必要十分な薬を確保して表情をだらしなく緩めているのを見ては、ユズハは目に涙を浮かべんばかりの感極まった表情でそれを見つめていた。もしもどちらかが死ぬ時があれば、きっともう片方も自然と後を追うのだろう。辛そうで苦しそうだけど、でもとても幸せそうだなとわたしは思う。

 わたし達が家族を失い、半ば文明を失って、それからわたし達の中から無くなったのは何なんだろう。彼女たちを見ているとなぜかそう思わずにはいられなかった。わたしは自然、彼女たちから目を背けるようになった。


 結局、ヒマリは自ら命を絶った。

 ライフル銃を用いて自殺するものがそうであるように、銃身を咥え銃口を上顎に押し当て足指で引き金を押したようだった。第一発見者はサクラコだったけど、彼女を疑う理由はどこにもない。銃声を聞き付けてわたし達が現場に踏み込んだ時には呆然と床にへたり込んでいて、その視線の先にヒマリの死体があった。顔の傷、目立たなくなったね。口には出さないけれど、わたしは彼女の頭部を見てそう思った。

 17歳で、秋の頃には誕生日を迎えるヒマリ。病に蝕まれて死ぬことを良しとしなかったのかもしれないし、ただ単に正気を完全に失ったのかもしれない、あるいは正気を取り戻したからこそ今の自分のありように絶望したのかもしれない。何の遺言も残っていなかったから、わたし達に真相は分からない。

「あ、銃……」

 ヒマリの握りしめたライフルを見て、サクラコが零した。

「いいよ。弾丸ももうなかったし」

 一緒に埋めてあげよう。そうユズハは言った。

「元はと言えば、ヒマリのお父さんのものだから」

 何かを思い出すように、ユズハは目を細めた。わたしは初耳だったが、驚きはしなかった。

「大丈夫なの?」

 心底不安そうにモモカが言う。

「ただの道具だよ。でもヒマリにはそうじゃなかったからね」

 あたし達のはまた探せばいいよ、そう言うユズハはどこか遠くを見るような顔つきをしていた。

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