ラブ・ガン

南沼

 今日、ヒマリが死んだ。


 夕刻、ようやく日の沈む頃。まだ5月の半ばだというのに酷く蒸し暑い日だった。1年ほど前までであれば信じられないくらい夕焼けが赤い。大人たちの最後の悪あがきである気化爆撃デバイスだかなんだかの影響だとラジオで聞いたことがある。そのラジオにしたってもう何ヶ月も放送してる局はなくて、どれだけチューナーを回してもホワイトノイズの濃淡が変わるだけだった。そう言えばラジオなんて、この破滅カタストロフィの前には見た事も触った事も無かったなとわたしはぼんやりと公団の屋上の手すりにもたれかかりながら考えた。

 この屋上がわたし達の集会所だと決まっている訳ではなく、「何となく、ふとした時にぶらりと寄る場所」みたいなふわっとした共通認識があるだけだった。でもだからこそ、ヒマリの訃報を知った皆は自然とここに足を向けたのだろう。黄昏時の少し前、馬鹿みたいに赤い夕焼け空を背景にサクラコとユズハとモモカのシルエットは黒々と浮かび上がって、わたしはその輪郭をしか捉えることが出来ない。きっと他の3人からもわたしはそう見えているのだろう。それが、境目にいるわたし達に相応しい時間帯だとわたしは思う。

 わたしを含めた皆が、黙って思い思いの方向を向いて佇んでいた。風とも言えないくらいにゆったりとした空気の流れがコンクリート敷きの地面の熱を運び、肌を優しく嬲る。

 ユズハが、地面に唾を吐いた。


 破滅について、話せば長くなる。

 どこにどんな切っ掛けがあったのかは知らないし、今そうなのであればこの先もずっとそうなのだろう。とにかく、たった1ヶ月の間にこの地球上から大人が居なくなった。ウイルスだという人もいた。生物兵器だという人もいた。宇宙線が致命的な細胞死をトリガーしたという人もいたけど、何も明らかにしないまま皆死んでいった。原因は不明、感染経路も不明、そもそも病理学的に疾病であるというエビデンスもない――というのは、その頃観たテレビ番組の受け売りだけども。

 肉体年齢にして18歳、そこがデッドラインだった。個人差はあるけれど、平均して18歳。そこを越えた全世界の人間に、等しく死は襲い掛かった。死に様は悲惨だった。脳を含む体内の臓器がグズグズに溶けて、穴という穴から粘性のそれを噴出させる。症状の進行速度は劇的の一言で、さっきまでぴんぴんしていた人が急に顔色を悪くして倒れ、2時間後には死んでいたなんてことがざらにあった。わたしのママは、まさにそうだった。パパは職場で亡くなったんだったと思う、多分。わたしはまだ9歳の弟を、ナオタを助けなきゃ、二人で逃げなきゃ、それだけで頭がいっぱいになって、悲嘆にくれる暇もなくナオタの手を引いて家を飛び出た。

 とにかく当時の混乱ぶりはものすごい有様で、わたし達子供もそうだったけど大人たちはそれ以上のパニックに陥っていた。それはそうだろう。理不尽に襲い掛かる、逃げようのない死の対象がまさに自分達ひとりひとりだったのだから。そこから先、誰がどういう意思決定をしたのか定かではないけれど、想像には難くない。フィクションの中で、あるいは過去の賢人たちによって散々警告されたように、終末を間近に見て取った人間の愚かさがもたらす当然の帰結として、戦争と破壊が起こった。国同士で諍い、民族同士で争い、てんでんばらばらな破壊の痕だけを残して大人たちは死に絶えた。勝者のいない、人類史の中で最も愚かな戦争。核で汚染されて住めなくなった国や地域も、一つや二つではなかったと聞く。でも、それを無責任と責めるのは酷だとわたしは思う。愚かさの度合いで言えば、わたし達だって似たようなものだからだ。もしかしたらもっと酷いかもしれない。

 わたし達は世界に取り残された。ただ、無傷ではない。わたし達に残されたのは恐らくは大人たちを襲ったものと同種の何かによる、不可逆な後遺症だった。高熱にうなされ身体中に激痛が走る一夜を経て、得られたのが今の身体だ。外見は変わっていない。ただ、恐ろしく力が強くなり、傷の治りが早くなった。怪我をしても血があまり出ないし、痛みもさしてない。男子ならきっと一度は夢見ただろう、アメコミヒーローのような身体。

 だから、わたし達が自分の身体の変化に気付いた後に起きたらんちき騒ぎはものすごかった。私たちに道徳と道理を説く大人はもうおらず、良識があっても今後自分たちが辿るビジョンを少しでも想像する知能のある子供たちは絶望の真っただ中かあるいはただ呆然としていて、街中の至る所に溢れる略奪と暴力の奔流に抗うどころではなかった。狂宴の当事者たちが発揮したある意味無垢で無秩序な攻撃性は、人類が同胞たちに対してどれだけ残酷な仕打ちが出来るかを多種多様なやり方で体現していった。生き残った僅かな大人たちは大半が殺されるか犯されるか、あるいはもっとずっと酷い目に遭って、今はもうどこにもいない。もしかしたら生き延びているのかもしれないけれど、自分たちの生きる足跡を完全に消している。

 この騒ぎの中で、わたし達はいくつか学んだことがある。

 ひとつは、いくら怪我の治りが早いとはいえ不死身ではないということ。あまりに酷い怪我は、血は止まってももう治らない。これは特に身体が欠損した時によく見られた。脳も、脳幹とか小脳とかがやられるともう駄目みたいだった。

 もうひとつは、時が経つにつれあの病による死者がまたちらほらと出始めたこと。特に18歳にほど近い人間に多かったようだ。これは恐ろしい事だ。つまるところ、わたし達はこれっぽっちも逃れられていない。死は、かつて自分たちが想像していたよりもずっと近くで私たちを必ず捕まえて、中身をグズグズにするのだ。

 想像してみてほしい。瓦礫の山に変わった街中に親を失った子どもたちだけが生き延びていて、すぐそこにある無残な死だけが約束された状況、これで一体誰が正気を保てるだろう?

 そんな風だから、今もらんちき騒ぎの火は完全には消えていない。面白半分に奪い、殺し、やられた側が生き延びればまたやり返す。多分これは、わたし達が皆死んでいなくなるまで終わらないだろう。下らないけど逃げられない、人間の性だ。

 勿論そうでない集団もいるにはいる。例えばわたし達がそうだ。わたしとサクラコ、ユズハ、モモカ、それから昨日までであればヒマリも。わたし達は5人で暮らしていた。半ば倒壊した、この公団の片隅で。


 そういえばそろそろご飯の準備をしなきゃな。自室でそう考えている頃合い、トントンと2回、控えめに和室の襖を叩く音がした。サクラコだ。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 妙におずおずとして他人行儀なのは、セックスを求める時のサクラコの癖だ。たぶん彼女に自覚は無いだろうけど。

「どうしたの」

 そういう時、わたしはわざとそっけなく振舞う。

 後ろ手で襖を閉めたサクラコは私の隣までやってきて、正座を崩したような格好で座った。元が剣道部ですらりと長い脚を持つ彼女は、それすら様になっている。

 まだ日は高いけれど、カーテンは閉め切っていて部屋は薄暗い。部屋を割り当てるにあたって他にもっとマシな部屋はあるよとサクラコはしきりに勧めてくれたが、畳のあちこちが毛羽立ってうっすらとかびた匂いのするこの部屋がわたしは好きだった。生家を思い出すからかもしれない。

 サクラコは座ってからも何か言いたそうにしていたが、こちらから敢えて水を向けるような事はしない。暫く沈黙が続いた後、ようやくサクラコは口を開いた。

「あのね、私怖くて」

「そう」

「トモコはさ、怖くないの?」

「何が」

「何って、ヒマリがあんな風に死んじゃって」

 私はようやく彼女の方に向き直り、じっと目を合わせた。

「服」

「え?」

「服、脱いで」

 たちまちサクラコは慌てた。ように見えた。

「服って、ちょっと」

「脱いで」

 いきなりの私の要求にサクラコは「まだ今日は身体拭いてないし」とへどもどしていたが、それは嘘だとわたしは知っている。こういう時、サクラコは絶対に身を清めてくる。下着だって、最大限小奇麗なものを身に着けているだろう。

 いいから脱ぎなさい、と冷たく言い放つとようやく諦めたのかサクラコは立ち上がり、俯きながらシャツのボタンに手を掛けた。わたしは視線でそれを急かす。

 わたしも、サクラコを抱きたかった。彼女が泣いて許しを請うぐらいに滅茶苦茶にしてやりたかった。

 わたしだって、ヒマリが死んで、平気な訳が無かった。

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