過ぎた夏の水中で

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過ぎた夏の水中で


 ぼくは人よりも長く海に潜ることができる。

 お父さんに聞くと、ぼくは他の人に比べてが強いらしい。お父さんは漁師で魚を捕まえるのが上手。泳ぐのだってぼくより上手い。でも、潜るのだけは良い勝負ができる。だから潜りはぼくの自慢だった。


 ぼくが暮らす町はすごく田舎で、買い物にはいつも隣町まで行っている。

 お母さんの運転はあまり上手じゃないみたいで、すぐに酔っちゃう。お母さんは自分で分かっていないみたいだけど、お父さんがそう言ってた。


 暑くなってきた季節に、転校生がやって来た。女子だ。ぼくのクラスは10人しかいないから、1人加わるだけですごく変な感じがする。

 すぐに馴染んだ。みんなは「ノッコ」と呼んで仲良さそうにしてるけど、ぼくは出来なかった。


 ノッコはすごく不思議な子だった。

 突然笑い出すし、ぼくらのことを何でも知っているような話し方をする。

 それでもクラスの人気者だった。勉強も運動もできるし、あっという間に中心に立っていた。


 海に入ってもいい海開き時期は、学校が終わると毎日海に行く。田舎なくせに、海水浴場だけはすごく広かった。

 そのせいで、ぼくは真っ黒に日焼けして、同級生や先生たちにからかわれる。でもノッコだけは何も言わなかった。ぼくが知らないだけかもしれないけど、すごく不思議な気持ちだった。

 夏休みが近づくとそわそわする胸を抑えきれなくなる。今日も先生に怒られた。


 ぼくは人が来ない海辺を知っていた。海水浴場から少し離れたところにある。人が来ないと言っても、大人がいないわけじゃないから、お母さんは何も言わなかった。すぐそばには船が停まっている。お父さんの知り合いの船らしい。

 ランドセルを砂場に投げ置いて、ズボンの下に履いていた水着に日の光を浴びせた。夏の日はパンツを履く方が少ない。それぐらい、ぼくにとって海は身近なモノだった。

 お母さんの趣味で選ばれたTシャツのまま、ぼくは海に足を踏み入れた。ひんやりと体中に広がっていく。熱くなった体が冷えていくみたいに気持ちが良かった。


「あ、見っけ」


 後ろから声がした。振り返ると、ノッコが立っていた。ニヤついているようにも見えたけど、どこか嬉しそうに、ぼくのところへ駆け寄ってきた。

 ぼくはどんな顔をしたらいいのか分からなくて、彼女から目をそらすしか出来なかった。ノッコは濡れることも気にしていないよう。ぼくと同じように足首だけ海に沈んだ。


「いつもここで泳いでるんだ」

「う、うん。どうしたの?」


 ノッコに問いかけるのは初めてな気がした。彼女はくすくす笑う。


「わたしも泳ぐの好きなの」

「そうなんだ」

「きみ、潜るのが得意なんでしょ? 勝負しようよ」


 ぼくの返答を待たず、ノッコは海の深いところを目指して歩き始めた。

 赤いランドセルや靴はぼくと同じように、砂浜に投げ捨てられていた。先に行かれたから、負けたくないなんて気持ちが出てきた。

 ノッコは時々振り返りながら、やっぱりくすくす笑う。バカにされているみたいでも、文句を言う気にはなれなかった。


 足がつかなくなると、ゆっくりと平泳ぎをして沖流されないように注意する。

 ノッコはちらりちらりとぼくを見てくる。


「沖に流されるからここまでだよ」

「えーっ」


 残念がっているけど、だいぶ深いところまで来たのには違いない。ぼくよりも背が高いノッコの足も海中をもがいているぐらいだから。

 じゃあ潜るよ、とタイミングを合わせて息を吸って、そして沈む。ノッコが来てびっくりしていたのに、乗り気なリアクションをしてしまった自分が恥ずかしかった。

 空気が周りから消えていく独特の感じは、昔から変わることない。海中で目を開けるのに慣れた。すべてがぼやけて世界にたった一人しかいない気分になれる。

 ぼくの視線の先には、ノッコがいる。ぼくと違って、水色のゴーグルを掛けている。いつの間にとも思ったけれど、思ったほど潜水は上手じゃなかった。ぼくに見上げられながら、ノッコは海面から顔を出した。


 ぼくは全然余裕だったけど、勝負はついたから空をめがけた。


「ぼくの勝ちだね」


 顔を出して自慢げに言うと、ノッコは「あはは」と笑う。


「すごいや」

「……うん」


 ノッコは息が上がっていた。全然潜っていないはずだけど、素潜りはあまり得意じゃなかったのかもしれない。岸に戻る彼女に続いて、ぼくもゆっくり波をかき分けた。


「はー。きつかったー」


 砂浜にたどり着いた途端、彼女はみっともなく転がって見せた。

 太陽を全身に浴びて、ほんのわずかに膨らんでいる胸が息をする度に動く。妙に恥ずかしくなって、ぼくは砂浜に腰をおろした。

 濡れているからべっちゃりと水着に砂が付く。気持ちが悪いけど、振り払うと腕にくっつくから何もしなかった。


「泳ぐの好きなの?」

「うん。前住んでたところも海がきれいだったんだ」


 ノッコは北海道から引っ越してきたと言っていた。でもその前は違うところに住んでたから、北海道の人という感じはしない。方言も全然喋られないって言っていたし。


「わたしの家、転勤ばっか」


 ぼくの家とは全然違う。むしろ憧れてしまうけど、ノッコの口ぶりはそんなことなくて。すごく寂しそうで、つい「かわいそう」と言ってしまいそうになる。

 海水にまみれた体が太陽の熱を吸収する。日焼けするよ、と言ったら「きみに言われたくない」って返ってきた。


「ていうか、海の中で目開けるってすごくない?」

「誰でもできるよ」

「いーや! わたしは出来なかったもん」


 ぼくは気づいたときから目を開けていた。だから教えてと言われても、何も言うことが出来ない。勉強にしても運動にしても、人に教えるのは苦手だった。


「海の中、見えるの?」


 その質問には、少し考えた。


「見えないこともないよ」

「絶対ぼやけるでしょ?」

「別にいいだろ。それぐらい」


 「だめだよ!」なんて言ってくる。ノッコは一体何様なのだろう。海の中を見るも見ないもぼくの勝手なのに。

 彼女は起き上がったと思うと、投げ捨てた赤いランドセルを漁り始めた。やがて「あった!」なんて叫んで、ぼくの元に駆け寄ってくる。


「はい! あげる!」


 差し出されたのは、ピンク色のゴーグルだった。

 いや、自分の持っているし、もらう理由もない。それにピンク色なんてぼくが付けるような色じゃないよ。


「なにこれ」

「見てわかるでしょ。水中メガネだよ」

「わかるけど、なんで?」

「だから、あげるって言ってるじゃん」


 そうなることが分からないのに。ノッコは体操座りをするぼくの前に立って、ピンクのゴーグルを差し出したまま。受け取るまで動かない意思すら感じてしまう。


「自分のあるからいいよ」

「いいじゃん。わたしも2つはいらないし」

「ぼくだっていらないよ」

「もう文句言わないでよ」


 このままだとケンカになってしまいそうだったから、ぼくは仕方なくピンクのゴーグルを受け取った。ノッコはまた笑った。ムカつくぐらいニッコリ笑った。


「それ付けて潜ってみてよ」

「別にゴーグル付けて潜ったことはあるよ」

「だとしてもだよ」


 ノッコの肩まで伸びた髪に砂がべっとりと張り付いている。彼女はそれを手で振り払うと、海水の匂いの中にぼくが知らない匂いが混じっていた。

 視線を手元に落とすと、周りの男子が使わないであろうピンクが光る。お母さんにはなんと言おう。


「それはね、友達の証だよ」


 やっぱり、ノッコはすごく変なことを言う子だった。



 ◆



 人数が少なくてクラス替えもない。あの頃と変わらないクラスメイトとともに、小6の夏を迎えていた。

 ノッコはまた背が伸びて、ぼくはずっと彼女を見上げたままだ。お父さんは中学生になったら伸びるなんて言うけど、本当だろうか。

 昔よりも長く潜れるようになった。身長は伸びないけれど、成長できた実感があってますます海が好きになった。


 ノッコとはずいぶん仲良くなった。一緒に海で遊ぶことも増えたし、クラスメイトを巻き込んで水泳大会をやったり、いつしかぼくはクラスの中心にいた。

 ぼくは何もしていない。ただノッコに引っ張りあげられただけだ。運動会にしても行事にしても、ぼくが前に立って何かを話さなきゃいけない場面も増えて、それがすごく嫌だった。


 ノッコが海で溺れた。夏休み2週間前の朝礼で先生が言った。

 でも無事ですぐ学校には来れるって続けた。

 その通りで、次の週にはケロッとした顔で教室に入ってきた。ぼくはすごく安心した。

 調子に乗っていたぼくは、夏休み初日に海に行こうと彼女に言った。でもノッコは「いいよ」と言ってくれた。ぼくはそれを真に受けた。


 ノッコは海に来なかった。だから一人で夕方まで潜っていた。

 家に帰ると、ノッコから電話があったとお母さんから聞いた。だからぼくは、ノッコの家に電話して謝った。


『海が怖いの』


 ぼくはひどく後悔した。同時に、調子に乗っていた自分が情けなくて、弱々しいノッコの声を聞きながら泣くしかできなかった。

 話を聞くと、ノッコは泳いでいる最中に足を吊ってしまったという。動揺して呼吸を乱し、気がついたら病院の天井があったらしい。大人が近くにいなかったら命が危なかった。それは本人もわかっていて、直前まで迫ってきた死の恐怖に打ちひしがれている。


『でも嫌いになれない』


 トラウマになってしまったのに、嫌いになることが出来ない苦しさ。小6のぼくには重すぎる感情だけど、少しでも理解しようとしている自分が居た。


「じゃあぼくが代わりに潜るよ。きみの水中メガネを付けて」


 やっぱりぼくは調子に乗っていたと思う。

 家の引き出しから探し出したソレは、今のぼくには少し小さい。でも気にならなかった。これはノッコの目で、彼女を元気づける唯一の方法だと信じ込んでいたから。


 夏休みが終わると、ノッコは学校に来なくなった。


 東京の学校に転校しました、と先生がいつにも増して無機質な声で言った。

 信じられなかった。あの日のせいか、と何度も自分を責めた。

 それよりも、友達だと思っていたノッコから何も言われなかったのがひどくショックだった。彼女が悪いわけではないのに、無責任にもノッコを責めたくなるぐらいには、本当に悲しかった。


 9月だったけど、ぼくは無性に海に入りたくなった。

 放課後、海に行った。誰も居なかった。水着も持っていなかった。ノッコから貰った水中メガネだけは、急いで家から持ってきた。

 パンツ姿になって、ぼくが知らないぐらいに冷たい海水に身を沈めた。ぶるりと体が震えたけれど、そのままぼくは海になる。


 苦しい。ピンク色の水中メガネ越しに見る海中は、本当に虚しくて。

 いつもより息が続かない。青く光る珊瑚礁はどこにもない。あるのはただ、後悔だけのぼくの思考だけ。

 海面に上がる。沈みかけの太陽がぼくをあざ笑っている。ムカついたから、もう一度沈む。けれど、いつもみたいに長く潜っていられない。まるで何かに取り憑かれたみたいで、気持ちが悪いだけだった。

 でも、何度も潜っているうちに涙が溢れて止まらなくなった。


 ノッコ。ノッコ。どうしてさ。ノッコ。

 ぼくの消えゆく感情は、何を意味しているのか、ようやく分かった。


 さよならを言えなかった。最後の最後に、ただそれだけを伝えたかったのに。

 ノッコに、ぼくは言いたかった。ありがとうって、さよならって、またねって。いつも一緒に遊んでくれて、嬉しかったよって。

 息が苦しくなっても関係ない。はじめて2人で潜ったあの夏の日。ぼくの隣には今よりも少し背が低いノッコが居て、ぼくを見下しながら空めがけて上がっていく少女。ノッコ、ノッコ、ぼくが好きなノッコ。


 気がついたときには、真っ白な天井があった。



 ◆



 昔の話である。僕は誰よりも潜るのが得意だった。

 でも今は、見る影もない。いくぶんマシになったが、海を見るだけで鼓動が高鳴ってしまう。過信で一度死にかけたのだ。それからトラウマになってしまって、すっかり泳ぐことをやめてしまった。


 僕は昔から人に教えることが苦手だった。すぐ調子に乗ってしまう。小さな田舎町では通用したものも、少し都会に出れば普通も普通。何も特別なことなんてない。

 ずいぶん久しぶりに帰省した。僕の両親も年を取った。親父に関しては今も現役で海に出ている。跡継ぎになるのは諦めて、しがないサラリーマンとなって働いている。


 海は汚れていた。見に行くつもりなんてなかったけど、僕の足は未だにここを忘れられないでいる。

 夏が終わろうとしている中で、あの頃と変わらない君は僕に笑いかける。さすがに少女の君には興味がない。どんな大人になっているのだろうと、純粋な興味はあるけれど。


 夕日。夏が終わる。

 記憶。揺れ動く感情。ふわりと香る海の匂い。

 そして、小4のころ知った君の匂い。


「やっぱり、海は綺麗だね」


 いつになっても不思議な子だった。


「やあ、久しぶり。時間通りだね」

「そっちこそ。待ちきれなかったんじゃない?」


 そうやって不敵の笑みで、僕を惑わす。

 今度は人魚姫にでもなって、僕を連れ去るのかい?


「当たり前だろ。ノッコ」


 だったら僕は、今度こそ君の手を掴んで離さないと誓おう。



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 近況ノート更新しました。お知らせがございます。


 https://kakuyomu.jp/users/paripinojyoshiki/news/16817139556507270538


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