あの日の僕は殺された。

冬気

あの日僕は殺された。


 夏。学校の帰り道。

 もう何もかも嫌になってふらふらと歩く。後ろから暴走した車が走ってきて、僕のことをはねてくれないかな、なんて願ってしまう。当然、都合よく暴走してくれる車などいないわけで、僕は擦り傷ひとつないまま電車の高架下に向かって歩く。


 ――ねえ、君のこと殺したいんだ。

 唐突にそんなことを言われた人間、ましてや高校生は一体、世の中にどれほどいるのだろうか。少なくとも、僕の周りには一人もいない。ちなみに、これを言ってきた目の前の彼女は初対面である。初対面で、こんなインパクトのある言葉をかけてくる人と出会える確率と、宝くじ一等が当たる確率、どちらが高いのだろうか。僕は後者だと思う。

 「は?」

 僕は至極一般的な反応をした。しかし目の前の不審者は僕の反応に対し「なぜだ?」とでも言いたそうな顔をしている。頭のネジが全部吹っ飛んでるんじゃないのか、この人。

 「なぜだ?」

 表情だけじゃとどまらなかった。完全に危ない人でしかない。小学校の頃に刷り込まれた『いかのおすし』が脳裏をよぎった。とにかく、ここは刺激しないように……。

 「警察呼びますよ」

 「今日はスマホを家に忘れているだろう?」

 なぜ知っている。スマホを取りだす演技をするため、ポケットに近づけていた手が行き場をなくして気まずい。

 「あなた何者なんですか。どうして初対面の僕を殺したいんですか」

 いつ目の前に包丁の類が飛び出してきてもいいように少し身構える。

 「何者かなんてどうでもいいだろ? 君を殺したいのはたまたま目に付いたから。ちなみに君の名前も知ってるよ。ユウくん?」

 なぜ名前まで知られてるんだ……?そして、理由はなんとも理不尽。ただ、あれだけ逃げようとして言うのも変だが、さっきから誰かに殺して欲しい気持ちでいっぱいなんだ。今ここでエンドロールを迎えられたら、どんなに嬉しいだろうって思っている。今いる世界から、僕を引っ張り出して欲しい。そのチャンスが今、目の前に転がってきた。

 「そんなに殺したいんですか? 僕のこと……」

 「それなりには」

 それなり、か……。今、人生を大きく変えるポイントに僕はいる。頭の中でどす黒い記憶たちが溢れ出す。強い光を見てしまった後みたいに視界がチカチカする。

 馬鹿げてると思う。間違っていると思う。でも、目の前の得体の知れない彼女が僕をここから連れ出してくれるって思ったんだ。だから。

 「殺すって、どうやって……?」

 彼女の口が二ヤリと弧を描いた。

 「深夜零時にここで――」

 彼女が僕に近づいてくる。鼓動が次第に加速する。頭上を電車が走り去る。轟音が響く。

 ――待ってるよ。

 彼女は僕とすれ違う瞬間そう言って、そのまま電車が走り去るのと同時に横を通り過ぎた。振り返ると彼女はいなかった。


 深夜零時。僕は言われた通り高架下に来た。家にいるときに考え直したが、考えは変わらなかった。高架下を照らす蛍光灯は暖色系のはずなのに、ひどく無機質で冷たく感じてしまうのは深夜の涼しさによるものだろうか。そのうちの一つが照らす下に彼女はいた。先程は気にしていなかったが、彼女は僕よりも身長が高かった。見た目からしても恐らく、僕の二、三歳は上だろう。黒一色の服装が夜と同化して、ここら一体の闇が彼女の一部のようだ。

 「お、来た」

 僕に近づいてくる。もしかして今ここで殺されるのかな。心はいつもと比べてひどく穏やかだった。やっと解放されることに安心感を抱いてるのかもしれない。ここ数年は感じなかった陽だまりでうたた寝をしているような気分になった。

 しかし彼女は「じゃ、行こうか」と僕の肩を軽く叩いただけだった。なんだか拍子抜けしたが、終わりが見えていると心に余裕が生まれる。

 「どこに行くんですか?」

 目の前の彼女の背中に疑問を投げる。

 「決めてないよ」

 僕はこの人が分からなくなってしまった。初めに『殺したい』と言ってきたのに、現在は僕を殺すでもなく、共に夜を彷徨おうとしている。何の目的があって動いているのかがさっぱり読めない。

 「とりあえず遠くへ行こう。ここじゃないもっと遠くへ」

 なんだその適当な提案は。でも、どこか期待に満ちている自分もいた。夜には不思議な高揚感がある。誰もが寝静まって街は静けさに覆われる。自分だけが起きているという特別感。周りに人がいない非日常感。所々点いている街灯は、全てを夜に受け入れてくれる安心感がある。眩しい光を放つ自販機は、闇に迷ってしまわないよう導いてくれるような気がする。暗闇と光の共存。そのバランスに心地よさを感じる。夜は昼よりもずっと呼吸がしやすい。心に負担を感じない。数か月前に知ったことだ。どこまでだって行ける気がしてしまう。本当に、彼女が言った『遠く』へ行ける気がする。

 「喉乾いた」

 彼女は唐突にそう言って足を止める。

 「あそこの自販機で何か買おうよ」

 僕の返事を聞かずに、彼女は煌々と光を放つ自販機に近づく。眩しい光が目を刺す。僕は、彼女の影に入る形で自販機に近づく。夜の自販機はとても眩しいんだな、なんてことをぼんやりと思う。彼女は百円硬貨を二枚入れて、体に悪そうなデザインのエナジードリンクを買った。その後、彼女は百円硬貨をもう二枚入れて「好きなもの選んでいいよ」と僕の前をどいた。自販機の光が直接目を刺す。眩しさでろくに見えない商品の中から、山の写真がラベルに載ってる天然水を選んだ。ガコンッとペットボトルが取り出し口に放り出される。それを取って一口飲んだ。冷たい水は胸の真ん中あたりでひんやりと存在感を放った。

 「あなたの名前は?」

 「へ?」

 気になって思わず訊いてしまった。

 「あなたの名前です。名前も知らない人に殺されるのはちょっと……」

 「えー? 知りたいの?」

 なんでちょっと嬉しそうなんだこの人。あと今気が付いたが、彼女の目の下のは濃いクマが出来ている。

 「サヨ、だよ。私の名前は」

 「サヨ、さん……」

 どこかで聞いたことがあるような名前だが思い出せない。

 サヨさんはその後も本当にあてもなく歩き続けた。これでこの人の目的が完全に分からなくなった。初めから僕を殺すつもりなんてなかったのでは、とさえ思えてきた。しかし、だとしたらなぜ僕に声をかけたんだ。意味が分からない。

 五時間ぐらい歩いただろうか。足が痛い。辺りの灯かりは少なくなり、規則的に立っている街灯が地面を照らしているだけになっている。右側には海が広がっており、真っ暗な中から波の音が聞こえてくる。サヨさんはそのまま何も言わず、砂浜に続く階段を下っていく。そして波打ち際まで行き、沖の方を眺めた。僕も彼女の左に立って同じように沖の方を眺めた。数秒だったかもしれないし、数分だったもしれない沈黙を破ったのはサヨさんだった。

 「君、本当は死のうとしてたでしょ」

 思わずサヨさんの方を見る。心臓が大きく跳ねた。つい今日の……いや、もう昨日か。昨日の帰り道に、確かに自分で終わろうと思っていた。もっとも、目の前の彼女のせいで実行される必要はなくなったが。


「ねえ、生きてよ……。あなたのことを待ってる人がいる……」

 今までも、この人が何をしたいのか、何を言いたいのか分からなかった。だが、今度こそは心の底から分からない。

 何もかもうまくいかなかった。時間だけが過ぎていく。こんな状況を変えようとしても全てが裏目に出た。友達ともうまく付き合えない。全く別の思考回路をしている別の生き物のように感じた。仲良くなったと思っても、急によそよそしくなった。親の希望する進路以外に進みたいと言うと、僕の全てを否定された。先の見えないのをいいことに、親の希望を押し付けられた。それに向かって生き続けた。しかし、うまくいかなくなった時、その責任を誰も取ってはくれなかった。小さな頃はあんなに世界が輝いて見えた。突飛な夢でも、言えば褒められた。どんなに下らないことでも、やれば褒められた。でも今は、何をやっても怒られるばかり。良い成績を残しても関心さえしてくれない。自分の希望するものなんてここには無い。全てが誰かに決められ、そしてそれは自分で決めたことにされ、責任は全て押し付けられる。

 今さらだが、死ねるかもしれないという期待を裏切られた怒りが溢れ出す。

 「僕を殺すんだろ⁉ 殺したいんだろ⁉ じゃあ、早く殺してくれよ! 僕は何もうまくいかなかった! 小説も、音楽も、人との関りも、勉強も、人生も! あんたに何が分かるっていうんだ! 今さらおじけづきやがって! さっさと僕を殺してくれよ! 早く、早くこの世界から解放してくれよ! 何もかもうまくいかないこんなとこから、早く僕を連れ出してくれよ!」

 気付けば怒りのまま叫んでいた。怒鳴るというよりは絶叫に近かったかもしれない。ここまで大きな声を出したのは久しぶりすぎてむせてしまった。それを自分の気持ちをぶつけた代償だと思った。肺の酸素を出し切ってしまい、肩で息をしながら呼吸を整える。

 こちらに手を伸ばしてくる彼女を睨む。むせて滲んだ視界のせいで彼女が今、どんな顔をしてるのか分からない。もしかしたらその伸ばした手で僕の首を締め上げるかもしれない。

 しかし、その手が僕の首を締め上げることは無かった。気が付くと僕はサヨさんに強く抱きしめられていた。

「死のうとしないで……」

 落ちる瞬間の線香花火のような声で僕に囁く。

 視界の左側が微かに眩しくなった。水平線から太陽が昇ろうとしている。波の音と、サヨさんの温もりと、太陽の眩しさが僕を取り囲んだ。

「……そろそろかな」

 サヨさんがポツリと言った。そして僕から二歩ほど離れた場所に立つ。よく見ると、サヨさんにノイズのようなものが走っている。僕がポカンとしてそれを見ていると「心配しないで。きっとまた会える」と優しく微笑んで言った。

 パンッと電源を切るような音がしてサヨさんは目の前から突然消えた。

 「え?」

 何が起きたのか分からず動揺する。しかしその数秒後、僕の意識はプツリと切れた。


 ピッ……ピッ……。

 規則的な機械音が聞こえる。開いた目で見た視界は真っ白で思わず目を細める。ここは病院だろうか。体を起こそうとするが力がうまく入らない。首を動かし辺りを見回す。徐々にピントが合ってきた目に映ったのは、ベッド脇の椅子で眠ってしまっている女性。

 「サヨ……さん……?」

 彼女がピクリと反応してゆっくりと顔をあげる。僕を見るその目には涙が溢れている。

 瞬間、僕の脳がぐらりと揺れた。流れ込んでくる大量の記憶。

 苦しい。苦しい。首が締まる。誰か助けて。息ができない。足をばたつかせるが、虚しく空気を空振るばかり。次第に意識が遠のき視界が真っ暗になる。これは僕がこの世を去ろうとした時の記憶。よく覚えている。その苦しさを思い出しただけで背筋が凍る。しかし、知らない記憶もある。今、目の前にいる彼女。サヨさん。僕はこの人を知らないはずだ。高校の夏に終わろうとしたのだから。しかし、知っている。彼女と夜を歩き回り、海辺で死なないでと言われたことを。同じ時間の記憶が『二つ』ある。まるで、二回人生を送ったような。

 あ。

 そうだ、サヨ。小夜。この名前を知っている。僕が中学校のとき隣に住んでいた同級生。数少ない僕の友達。高校進学の時に引っ越してしまい疎遠になっていた。

「ユウ……?」

 僕の名前が呼ばれる。もしかして、彼女は僕の過去を改変したんじゃないだろうか、なんて思った。が、きっと長い眠りに飽きて創り出した妄想だろうな。

「僕のことは殺せた? 小夜?」

 彼女はクスッと笑った。

 いや、あながち妄想じゃないのかもしれない。彼女はちゃんと、あの日死を選んだ僕を殺してくれたのだから。

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あの日の僕は殺された。 冬気 @yukimahumizura

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