龍のニエ姫
夕藤さわな
第1話
谷に暮らす龍が王都の空を飛んだ。
巨体は王都に影を落とし、その影は飛び去ることなく広がって重苦しい雨雲になり、何年も王国を覆い続けた。雨は絶えず降り、植物は枯れ、作物は腐り、飢餓と疫病が人々を苦しめた。
人々の嘆き悲しむ様に心を痛めた聖女は龍を鎮めるため、その身を捧げることにした。清らかなその身と心を純白の花嫁衣装に包み、聖女は龍へと嫁いで行った。
聖女がその身を捧げるとすぐに空を覆っていた雨雲は去り、王国に何年振りかの陽の光が差した。
あれからおよそ二百年。
龍の花嫁となった聖女は十二度生まれ変わり、十七才の誕生日を迎え、今日再び――。
「貴方様にこの身を捧げに参りました」
かたい鱗に覆われた納屋よりも大きな頭を持ち上げ、花嫁衣装に身を包んだ私を
「いらん」
龍は鼻で息をつくと再び丸くなった。赤茶けた谷の土と同じ色の大きな大きな龍だ。
目を閉じて眠る体勢に入った龍を私はぽかんと見上げた。何を言う暇もなく食べられて、私の命は終わるものと思っていたのに。
「あ、あの……」
「お前を食うつもりはない」
龍の言葉にほっとするよりも混乱していた。
食うつもりはないとはどういうことだろう。私が聖女の生まれ変わりで、龍の花嫁だと気が付いていないのだろうか。会えばわかってもらえるものと思っていたのに。
ざわりとする胸を押さえ、花嫁衣装を引きずり、龍へと一歩近付いた。
「最初に貴方様の花嫁となった〝私〟の兄から続く血筋に再び生まれ……この通り、最初の〝私〟や貴方様に嫁いだ十一人の〝私〟と同じように手のひらに花の形の痣も浮かんでおります」
シルクの手袋を外し右の手のひらを突き出してみせると龍は薄目を開けた。人の頭くらいありそうな目玉はワニに似た金色をしている。大きく鋭い目に睨まれて一瞬、怯んだものの私はさらに右の手のひらを突き出した。
「最初の〝私〟や今まで貴方様に嫁いだ〝私〟の記憶をはっきりと思い出すことはできませんが、貴方様と交わした約束だけは覚えております」
「……約束、か」
「はい。この世に再び生まれ落ちたそのときは再び龍の花嫁となり、その身を捧げるように、と。天と私に選ばれたお前がその身を捧げれば……」
「王国に災厄が降りかかることは決してない、か?」
龍の言葉に私は大きくうなずいた。
「はい……はい、そうでございます!」
約束だけは覚えている。
そう言ったけれど本当のところはおぼろげで、夢か何かで見ただけなのではないかと不安だった。
だけど、やはり約束は交わされていた。
「天と貴方様に選ばれ、私は再びこの身を捧げに参りました」
間違いなく自分は聖女の生まれ変わりで、龍の花嫁なのだと確信して私は背筋を伸ばした。
「そんなに死にたいのか」
「死にたいわけではありません。龍である貴方様に嫁ぎ、この身を捧げ、王国とそこで暮らす人々を災厄から守りたいのです」
生まれる前から私の運命は決まっていた。
代われるものなら代わってやりたいと何度、母は言っただろう。でも代わりたいと言って代われるものではない。代わりなどいない。
この身に流れる血と約束と。
家族の中でただ一人違うけれど、最初の〝私〟と同じ金色の髪と
右の手のひらにくっきりと浮かぶ花の形の痣が何よりの証。
「私にしかできないことがある。それはなんと誇らしいことでしょう」
怖くないと言えば嘘になる。体は迫る命の終わりに震えている。だけど心は誇らしさでいっぱいだった。
胸を張り、にこりと微笑み私を見て龍はゆっくりとまばたきすると、ふいと顔を背けた。
「初代の聖女は亜麻色の髪、琥珀色の目をしていた。痣もホクロかシミのようなもので形も花と言われればそう見えなくもないという程度のもの。そんなにはっきりとした花の形の痣ではなかった」
そして龍は億劫そうなため息とともに言った。
「お前は聖女の生まれ変わりでも龍の花嫁でもない」
「え……?」
「確かに私はこの谷を訪れた初代の聖女を食った。その次も、そのまた次も。しかし食え、食えとうるさいから食っただけのこと。お前たちに生贄を寄越せと言ったことなど一度もない。そもそもお前たちの国に災厄など降らせていない。何年も続いた雨も私が何かしたわけではない」
龍の言葉に私は目をしばたたかせた。
「この谷からほとんど出ることのない貴方様が何年も続く雨の前に王都の空を飛んだではありませんか」
「この谷を出たのは雨が降り始めたあと。前じゃない。雨で寝床が流されたから一時的に避難したのだ。この通り、寝床を一段高くして作り直したから流される心配もなくなった。あれ以来、この谷から出てはおらんよ」
龍に言われて足元をぐるりと見まわす。祭壇だと思っていた高い高いこの場所は龍にとっては一段高くしただけのただの寝床だったらしい。
呆然と足元を見つめていた私はハッと顔をあげるといきおいよく
「ですが、最初の〝私〟が身を捧げたあとすぐに何年も空を覆っていた雨雲は去り、王国には陽の光が差しました。それは貴方様が〝私〟との約束を守ってくださったからではないのですか?」
「人間の寿命は三十年か四十年程度なのだろう。三年が〝すぐ〟とはずいぶんと気の長い話だな」
鼻で笑って龍はゆらりとふさふさの房がついたしっぽを揺らした。
「お前が初代の聖女の生まれ変わりというのは嘘だ。初代の聖女と血が繋がっているというのも嘘。髪の色も目の色も家族の誰とも似ていないだろ」
その通りだ。家族は皆、亜麻色の髪、琥珀色の目をしている。龍が言った〝初代の聖女〟と同じ亜麻色の髪、琥珀色の目をしている。
「聖女に仕立て上げるのにちょうど良さそうな珍しい髪色の赤ん坊をどこかから連れてきたのだろう。約束の記憶とやらも物心がつく前に何度も話して聞かせ、前世で私と交わした約束だと思い込ませただけのこと」
「そんな……こと……」
あるわけがない、という言葉は喉につかえて出てこなかった。
代われるものなら代わってやりたいと何度も母は言った。だけど、私の金色の髪を撫でることも抱きしめることも一度もしなかった。
家族と会えるのは年に一度。最初の〝私〟や龍の花嫁となった〝私〟、そして私自身の誕生日だと教えられた日に行われる儀式のときだけ。
でもそれは龍の花嫁となる娘は身も心も清らかでなければならないから。俗世の穢れから遠ざけるために仕方のないことなのだと何度も教えられてきた。
全部、全部、私にしかできないことを成すため。
そのはずなのに――。
「弱く小さな人間ごときに〝私にしかできないこと〟などあるわけがない。お前も龍の花嫁などと呼ばれてここに来た者たちも騙されていたのだ。家族や王族たちにな」
ざわりと震える私の胸を龍の言葉が容赦なく抉った。
「全部、嘘……?」
へたりと座り込んで私は右の手のひらに目を落とした。そんな私をチラッと見て龍は言った。
「その痣、家畜に押される焼印に似ているとニエはよく言っていた」
「ニエ……?」
それは私の名だ。そして――。
「そうか。お前たちは皆、ニエなんだったな。初代の聖女と同じ」
そう、初代の聖女もニエ。代々の龍の花嫁もニエと名付けられるのだ。
「貴方様が仰る〝ニエ〟というのは……」
「確か七代目だと言っていた」
最初の〝私〟も龍の花嫁となった〝私〟も、今、目の前にいる私もニエだ。だけど龍は彼女のことだけを指し、金色の目で見つめて〝ニエ〟と呼んだ。
龍の寝床のすみにできた花畑と小さな墓石。その下に眠っているのだろう彼女のことだけを指し、思い浮かべて〝ニエ〟と呼んだ。
「それまでの者たちは食え、食えというばかりだった。だから食った。うるさくて寝れたもんではなかったからな」
あくびをする龍の口を見て息をのむ。
人間一人を丸飲みにすることなど簡単にできそうな大きな口。人間一人を噛み砕くことなど簡単にできそうな鋭い牙。その口に最初の〝私〟も龍の花嫁となった〝私〟も皆、食われてきたのだろう。
いや――。
「だが、ニエは食うなと言った。だから食わなかった」
彼女は――龍が言う〝ニエ〟は違ったらしい。
「王国に降り続いた雨は私のせいだったのか、本当に生贄を求めたのかとも聞いてきた。違うと答えたら今度は王に龍の花嫁など不要だと言いに行ってくれと言い出す。死ぬまでギャーギャーと実にうるさかった」
億劫そうに喋るばかりだった龍の声が彼女について語るときだけは感情的になる。私の胸がまたざわりと騒ぐ。
そのあいだにも龍は話し続ける。
「ああうるさくては落ち着いて寝れん。あんな目に遭うのは二度とごめんだ。だからニエが死んだあと、当時の王に会って言ってやったのだ。龍の花嫁などいらんとな」
「ですが……私は龍の花嫁としてここに来ました」
言った途端、龍は不満げに鼻で息をついた。
「人間の事情なぞ知らん。お前たち人間は弱く小さい。だから変化を恐れたのだろう」
そうかもしれない。
二百年以上続く風習を自分の代で変えることは恐ろしい。変えたことによって何かが起こったらと思うとなおのこと恐ろしい。
いくら龍が生贄などいらないと言っても人間が変化を恐ろしがっているうちは龍の花嫁は育てられ、嫁ぎ続けるのだろう。
私のように――。
「とにかく私は生贄なんぞ寄越してくるなと言った。やってきた人間を食うのもやめた。あとのことは知らん。お前もどこへなりとも行け」
フンと鼻を鳴らすと話はおしまいとばかりに龍は目を閉じてしまった。
「どこへ……なりとも?」
沈黙がさっさと出て行けと私をせっつく。でも、どこかに行くどころか立ち上がる気にもなれなかった。
バラの花びらを浮かべたお風呂で毎日、体を清めた。
魚や肉は避けて野菜や果物だけを食べてきた。
世間話なんて全くしない家庭教師から厳しく行儀作法をしつけられた。
王の庇護と民の税によって私は十七才まで育てられたのだということと、龍と聖女にまつわる歴史だけを何度も教えられた。
だけど、読み書きは少しも教えられなかった。
すべては私が聖女の生まれ変わりで、龍の花嫁で、俗世の穢れから遠ざけるため。清らかに保ったこの身を捧げ、災厄から王国を守ることは私にしかできないことだから。
そう信じて従ってきたことだというのに――。
「違った、なんて……」
私にしかできないことなんかではなかった。
本当は聖女の血なんて引いていなくて、どこからかもらわれてきて家畜のように焼印を押され、聖女の生まれ変わりなのだと思い込まされていただけのこと。
私の代わりなんていくらでもいた。それどころか龍にとっては眠りを邪魔する迷惑な存在でしかなかった。
座り込んだまま自嘲気味に笑って、私は目を閉じている龍を眺めた。
龍がニエと呼ぶ彼女の墓はほとんど日影のこの場所で、唯一陽の当たる場所にあった。
墓石のまわりに咲く花は森で見かけたものばかり。草も生えないこの谷で咲けるとは思えない小さく可憐な花ばかり。
私の白い花嫁衣装には薄茶色の細かな砂が降り積もっているのに、動かない彼女の墓石はきれいに保たれている。時折、ゆらりとゆれる龍のしっぽの先に生えたふさふさの房が彼女の墓石を撫でて砂を払うのだ。
「……うらやましい」
「ニエの代わりなど、なおのこといらんぞ」
思わず漏れた言葉に低く不機嫌な声が返ってきた。
胸がざわりとしたのはいらないと拒絶されたからか。龍にとって特別な彼女に嫉妬したからか。
いや、確かに彼女をうらやましいと思った。
「貴方様は弱く小さな人間に〝私にしかできないこと〟などないとおっしゃいました」
でも――。
「貴方様に私たち〝ニエ〟を食べることをやめさせ、王に生贄は不要だと告げさせた〝ニエ〟は彼女にしかできないことしたんだと思います」
私と同じ弱く小さな人間のはずの彼女が、だ。それなら私にも〝私にしかできないこと〟があるかもしれない。
そう思ったら胸がざわりと騒いだのだ。
私は立ち上がるとさっと花嫁衣裳の砂を払った。
「街への道はこちらですか」
龍は薄目を開けるとうなずく代わりにゆっくりとまばたきした。
「あぁ。……その辺に落ちている鱗を持っていけ。龍の鱗は高く売れるらしい」
「それも〝ニエ〟が言っていたのですか」
何の気なしに尋ねると龍はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。図星だったらしい。くすりと笑ってまた尋ねる。
「さみしくはないですか」
彼女のお墓のまわり以外、草も生えていない薄暗い谷にひとりきりだ。
でも――。
「むしろ邪魔をされなくてちょうどいいくらいだ」
龍はさらりと答えた。
それは眠りをか。墓の下で静かに眠る彼女との時間をか。だけど、それを尋ねるのは無粋な気がしてやめた。
足元に落ちている龍の鱗を何枚か拾って街があるという方向へと足を向ける。一歩二歩と歩き出したところでふさふさの何かに髪を撫でられた。家族だと名乗った人たちが触れることすらなかった私の髪を、だ。
房が生えた龍のしっぽが私の髪と花嫁衣装についた砂を払ったのだと気が付いて私は振り返った。
「……」
素知らぬ顔で目を閉じている龍に目を細めて私はドレスのすそをつまむとお辞儀した。行儀作法は厳しくしつけられた。それなりに見られるお辞儀にはなっているはずだ。
そうして龍に別れを告げた私は街へと続いているはずの道を歩き出した。
龍の言うとおり弱く小さな私に、〝私にしかできないこと〟なんてないのかもしれない。でも、あるかもしれない。龍の心を動かした彼女のように。
何ができるかも、どうしたらいいかもまだわからない。胸がざわりと騒ぐから何かやりたいことはあるはずなのだけど、胸に生まれたばかりの気持ちは言葉にならない。
だから、今はまず街に辿り着くことだけを考えることにした。
それから――。
「お肉を食べてみようかしら」
ずいぶんと前から胸にあった気持ちをつぶやいて、くすりと笑った私は顔をあげた。谷の細いすきまからは青空と陽の光がのぞいていた。
今日もこの国の空に雨雲はない。
谷に暮らす龍が飛ぶことも、ない。
龍のニエ姫 夕藤さわな @sawana
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